法事の時のお話について
私は子供の頃から仏教の法事の時のお経の後のお坊さんのお話が大好きでした。なんだか心があらわれるような報われるような気持ちになるからです。
故人親の法事で、参列者は生存の親、子世帯1(子、配偶者、孫) 、子世帯2(配偶者、子なし年齢的に諦めた)
の場合、
お経の後のお話で、子孫繁栄について触れることはありますか? 先日、他の派生系宗教の法事で、お経の後の説話で、信者ではない私達子なし夫婦の前であからさまな子孫繁栄万歳話し、子孫を残すことのみが最高の親孝行話しが繰り広げられ、私は内容に酷く傷つき鬱状態で、死にたい気持ちです。私は純粋に故人を思い出し、感謝し、今の自分達が立派に生きてますよと、生きてる親を大事にしますと思いたかっただけなのですが全て打ち砕かれました。
仏教の場合、私達の様に子なし家族が混在する小規模な法事の場合、どの様なお話をされますか?
子供がいないことが、辛いです わかっていても、辛いです
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不浄説法
というのがありますね。悪い説法の見本とされているのですが、下品な説法の気がいたします。やはりどのような方が効かれているかわからないことを前提に、配慮して話すべきでしょうね。先祖供養、親への孝養(こうよう)などは説けても、子孫繁栄は避けるべきと私は思います。
怒りの眼鏡で見ない
法話の内容は不明ですが、子孫繁栄万歳という教えは仏教的にはあまり聴きませんね。
ただ、法事に故人の子供や孫などが集まっている光景には、命のつながり、縁を感じますし、喜ばしい光景だという程度の話は、あり得ると思います。
先祖や親がいて私たちの命がある、なんて話も、法話ではわりとベタな枕話かもしれません。
欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩は、ストレスの原因になります。
どんな説法だったかわかりませんが、あなたが怒り(悲しみや嫌悪を含む)の煩悩の眼鏡で見ていたら、たとえ遊園地でも地獄絵図に見えます。
あなた自身の煩悩に気づかせてもらえる機会になったと、ポジティブに考えてはどうでしょうか?
人生は、どうせできることしかできないのだから、できることをできる範囲でやれば良いのです。
他人と自分を比べたり、理想の自分と今の自分を比べたりするのは、プライドの煩悩です。
プライドの煩悩もストレスの原因になるので、執着を手放した方が人生は楽になります。
「説法はこうあるべきだ。私が知っている説法はもっと素晴らかった」というのも、執着の煩悩かもしれません。
それも、悩み苦しみストレスの原因になります。