hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

気になるのが辛いです。

回答数回答 2
有り難し有り難し 15

買い物中に歩いていたら、誰かが落とした鼻紙に、靴とズボンが当たってしまいました…。
見た目は汚くないのですが、誰かが使った鼻紙なので汚いと思ってしまいます。

ゴミとか汚い物に当たると、気になります。
お坊さん達なら、気にしませんでしょうか?
もし、気にならないとしたら、
どう考えたらそう思えるのでしょうか…?
考え方を教えて下さい。
よろしくお願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

般若心経の功徳の一つ「不垢不浄(ふくふじょう)」

まずはこちらで笑っていただければと思います。
私の実際の体験談です。
https://hasunoha.jp/questions/263
結論から申し上げますと「汚いもんは汚い」で無理して汚がらなくてもイイと思います。
ただし平気になれるのでしたらそれに越したことはありません。
仏法の上においては浄不浄は本当はありませんが、ばい菌で病気になるならないは話は別です。
考えで汚いとかきれいとか思い込むと人間は「考え」に縛られます。
感染系のものでもないかぎりは気にしない方がいいでしょう。
あまり気にすると子供のおむつ替えも、親の介護も、福祉の仕事もできません。
禅宗僧侶はトイレの履物をそろえたり、借りたトイレを掃除するなど日常茶飯事です。もちろん、終わったら手を洗います。衛生面は別問題だからです。
トイレで用を足す前にウスサマ明王という神様(自己の身心の浄不浄を問わない働きの事を神様として祀っている)にお辞儀をしてトイレで用を足します。
そもそも便だの排泄物と言いましても元々はお命様でしょう。
綺麗汚いの心を離れるには「非思量」と言って、綺麗だの汚いだの思う以前の事実を生活すると良いのです。
「とっさ」のアクションには綺麗も汚いもありません。
犬猫がぺろぺろなめてくるのを奇麗とか汚いとかペットを飼っている人は考えません。
事実は思考が付着する前は綺麗も汚いもありません。
掃除をする人はそんなことをいちいち考えていられません。
茶道でも飲みまわしの文化もあるくらいです。
鳥は親が食べたものを子供に吐いて(体内から移動させて)子供に与えます。ピラミッドの探検家は墓荒らしで病気になって死にました。綺麗汚いを超えたウイルスに感染して亡くなったとも言えましょうし、現代医学的な呪いとも言えましょう。だから現代では火葬をします。
病気とかばい菌的な汚いという意味の本質は、体に悪く作用する菌との作用によってアレルギー・病が発生するということでしょう。
平気か平気でないかは人によって異なるものです。
未開の部族では虫も平気で食べれば、日本人から見たら不衛生な動物の生ものでも平気で食べるものです。それは体が丈夫ということもあるでしょうし、耐性ができていれば大丈夫ということでしょう。大丈夫なら大丈夫。
「平気」になっちゃえばいいのです。
レベル10のうち7ぐらいまでは平気になればいいのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

意識を…

拝読させていただきました、慈陽院の平本と申します。

汚れを気にしてしまう性格にお悩みになっているのですね。

まず唾液は、体の中にあるときは汚くないと思いますが、外に出した瞬間に汚く思うことは、ありませんか?

排泄物に関しても、汚いものが自分の体の中にあるはずなのに嫌な気持ちになる人は、いませんよね。

つまり人間が意識をして「汚い」「綺麗」と判断しているのです。
そして鼻水とかに嫌悪感をなぜ抱くかと言えば、「病気」になりやすいから気をつけなさいと、無意識に注意をしてくれているのです。

しかしこの無意識の注意が過度に働いてしまうと過敏になってしまい、余計にストレスとなり逆に病気になりやすくなってしまいます。

本質に立ち返り、しっかり洗い病原菌が落ちて入れば大丈夫と思ってみてはどうでしょうか。
それでも意識をしてしまう場合には、自然世界に意識を向けてみてください。

自然世界は、すべてのものが綺麗な世界です。そんな自然を五感で感じてゆっくり深呼吸をして心を落ち着けてみましょう。

またお悩みごとがありましたら、ご相談お待ちしています。

{{count}}
有り難し
おきもち

質問者からのお礼

ありがとうございます。心が軽くなり、気持ちが楽になりました。気になる考え方を少しずつ変えていこうと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ