気になるのが辛いです。
買い物中に歩いていたら、誰かが落とした鼻紙に、靴とズボンが当たってしまいました…。
見た目は汚くないのですが、誰かが使った鼻紙なので汚いと思ってしまいます。
ゴミとか汚い物に当たると、気になります。
お坊さん達なら、気にしませんでしょうか?
もし、気にならないとしたら、
どう考えたらそう思えるのでしょうか…?
考え方を教えて下さい。
よろしくお願いします。
気にしい性格に苦しんでます。 特に汚れた物に敏感になってしまいます。 治りたくて、お寺で座禅を経験したり、毎日瞑想をしてます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
般若心経の功徳の一つ「不垢不浄(ふくふじょう)」
まずはこちらで笑っていただければと思います。
私の実際の体験談です。
https://hasunoha.jp/questions/263
結論から申し上げますと「汚いもんは汚い」で無理して汚がらなくてもイイと思います。
ただし平気になれるのでしたらそれに越したことはありません。
仏法の上においては浄不浄は本当はありませんが、ばい菌で病気になるならないは話は別です。
考えで汚いとかきれいとか思い込むと人間は「考え」に縛られます。
感染系のものでもないかぎりは気にしない方がいいでしょう。
あまり気にすると子供のおむつ替えも、親の介護も、福祉の仕事もできません。
禅宗僧侶はトイレの履物をそろえたり、借りたトイレを掃除するなど日常茶飯事です。もちろん、終わったら手を洗います。衛生面は別問題だからです。
トイレで用を足す前にウスサマ明王という神様(自己の身心の浄不浄を問わない働きの事を神様として祀っている)にお辞儀をしてトイレで用を足します。
そもそも便だの排泄物と言いましても元々はお命様でしょう。
綺麗汚いの心を離れるには「非思量」と言って、綺麗だの汚いだの思う以前の事実を生活すると良いのです。
「とっさ」のアクションには綺麗も汚いもありません。
犬猫がぺろぺろなめてくるのを奇麗とか汚いとかペットを飼っている人は考えません。
事実は思考が付着する前は綺麗も汚いもありません。
掃除をする人はそんなことをいちいち考えていられません。
茶道でも飲みまわしの文化もあるくらいです。
鳥は親が食べたものを子供に吐いて(体内から移動させて)子供に与えます。ピラミッドの探検家は墓荒らしで病気になって死にました。綺麗汚いを超えたウイルスに感染して亡くなったとも言えましょうし、現代医学的な呪いとも言えましょう。だから現代では火葬をします。
病気とかばい菌的な汚いという意味の本質は、体に悪く作用する菌との作用によってアレルギー・病が発生するということでしょう。
平気か平気でないかは人によって異なるものです。
未開の部族では虫も平気で食べれば、日本人から見たら不衛生な動物の生ものでも平気で食べるものです。それは体が丈夫ということもあるでしょうし、耐性ができていれば大丈夫ということでしょう。大丈夫なら大丈夫。
「平気」になっちゃえばいいのです。
レベル10のうち7ぐらいまでは平気になればいいのです。
意識を…
拝読させていただきました、慈陽院の平本と申します。
汚れを気にしてしまう性格にお悩みになっているのですね。
まず唾液は、体の中にあるときは汚くないと思いますが、外に出した瞬間に汚く思うことは、ありませんか?
排泄物に関しても、汚いものが自分の体の中にあるはずなのに嫌な気持ちになる人は、いませんよね。
つまり人間が意識をして「汚い」「綺麗」と判断しているのです。
そして鼻水とかに嫌悪感をなぜ抱くかと言えば、「病気」になりやすいから気をつけなさいと、無意識に注意をしてくれているのです。
しかしこの無意識の注意が過度に働いてしまうと過敏になってしまい、余計にストレスとなり逆に病気になりやすくなってしまいます。
本質に立ち返り、しっかり洗い病原菌が落ちて入れば大丈夫と思ってみてはどうでしょうか。
それでも意識をしてしまう場合には、自然世界に意識を向けてみてください。
自然世界は、すべてのものが綺麗な世界です。そんな自然を五感で感じてゆっくり深呼吸をして心を落ち着けてみましょう。
またお悩みごとがありましたら、ご相談お待ちしています。
質問者からのお礼
ありがとうございます。心が軽くなり、気持ちが楽になりました。気になる考え方を少しずつ変えていこうと思います。