真宗の救いについて
真宗の救いについてお尋ねします。
言葉の間違い等あるかもしれませんが
ご容赦ください。
阿弥陀様に救われるには
信心をいただき感謝をしていくことが
教えであると解釈しているのですが。
それは現在生きている人に対してであり
既に亡くなった人に対しては
どういう教えになるのでしょうか?
例えば
まったく真宗の信仰がない家庭で
親を亡くした子と話す機会があるとし
また、子は成人以上の歳とします。
その時に真宗の教えを子に話しますが
親は生前に信心がないと思います。
どんな言葉を子にあげられるのでしょう?
信心なく亡くなった人は
その後どう救われていくのでしょう?
いろいろと調べてみたところ
信心なければ救われないという話と
そうではないという話を読みましたが
どうもわかりませんでした。
お手隙のお時間に
返答いただけましたら幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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亡き人の救いを問題とする私にこそ問題があるといただく
ご相談拝読しました。
まず大前提として、仏教は自分を問題とする教えです。自分以外の人に当てはめて考えようとすると無理が出てくる面があります。
さて、「信心なく亡くなった親御さんの救いをその子にどう説くのかと」いう例題ですが、それは「その子自身の救いの問題」としてでしか考えられません。
その子が仏になるならば親御さんがどうなっていようと救うことができるからです。
さらには、「親御さんを救うということを考える=親御さんを救われなければいけない存在ととらえる」ということであり、その人死後についてはその人本人でしかわからないのに、残されたものが亡き人を「救われなければいけない存在≒苦しんでいる存在」と捉えているとしたら、それは亡き人の問題でなく、そう捉えている人の問題だからです。
また、阿弥陀様の救いは信心をいただき感謝をすることを条件として得られるものではなく、「信心=感謝(信心歓喜)=救い(現生正定聚)」であり、「今・ここ」におけるものであって「死後(だけ)」の救いではありません。
亡くなった人の救いをどれだけ論じようが、それは生きているものの思い計らいでしかありません。
生きている者が確かめることができるのは「亡き人本人が死後実際にどうなっているか」ではなく、「亡き人は今この“私にとって”どのような存在として見出されるか」という問題であり、どこまでも私一人の問題なのです。
その私一人が救われてこそ、そこに亡き人をはじめてとして一切全ての方々の救いが感得されるのです。
阿弥陀様からすれば、そして、信心なく亡くなられた人からすれば
こんばんは。亀山純史と申します。私自身は、次のように考えております。
信心なく亡くなった人における救いは、阿弥陀如来からすれば、「すでにその人は救われている。」と言えるでしょう。しかし、信心なく亡くなられた人からすれば、「自分は未だ救われていない。」と言えるでしょう。
阿弥陀如来は、私たちのことを迷いから救っておられる仏様です。ですから、阿弥陀如来からすれば、私たちはすでに救われた存在ということです。一方、私たちは生まれながらにして、そのような仏様の存在に気づいていないわけです。ですから、「阿弥陀如来の願力によって、私たちは救われている。」という信仰が生まれたのです。ですから、この信仰に生きなければ、私たちの中に、阿弥陀如来による私たちの救い(「私は阿弥陀如来によって救われている。」という心の在り様)は生まれてこないのです。
このことを、福袋買いで例えてみたいと思います。中身が何かわからない状態での福袋(実はそれは自分が欲しいものが入っていた福袋)を買って、すでにその福袋の中身は自分のものになっていても、その袋の中には自分が欲しいものが入っていることを知ってはじめて、この福袋を買って本当に良かった、と思うわけで、袋の中身を見るまでは、この福袋を買って本当に良かった、とは思わないでしょう。阿弥陀如来の救いと、私たちの中に生まれる「救われている。」という心の在り様も、同じようなことだと思っています。
最期に、信心なく亡くなった人が救われていく道、手立てとしては、遺された人が、信心のある道を歩んで、その道を故人に見せてあげることではないかと思っています。
以上が私からの回答です。少しでもお役に立てればと思います。