ぎゃーていのサンスクリット語での語感は
先程の質問で頂いた回答の一部が、ツボにはまってかなり笑い続けています。まだ眠れません。
そこで新たに質問で聞いてみたくなったので、よろしくお願いいたします。
私がはじめて般若心経を読んだ本では、ぎゃーていぎゃーていの部分は『往き往きて』と書かれていました。何年か後、別の何かで『行こう行こう』と書いてあったと思います。
最近は知らないですが、行こう行こうなのかな?と思います。
ところで私は、日本語訳と原文の英語があった場合、もちろん日本語の方が分かりやすいのですが、英語は英語で元の感触というか、日本語訳との違いを感じ、英語の方が元々伝えたかった感じをよく伝えてるだろう気がしたりします。ネイティブはまた私と違う感じで書いてるかもしれませんが、日本語訳も合ってるのに違いがある気がするって面白いなと思ったりします。ぎゃーていのサンスクリットの感じって、日本語で読んだときと違うなって思った方はおられますか?
私は『ぎゃーていぎゃーてい』と『往き往きて』では、ぎゃーていが分からなさ過ぎて違いがありません。
行こう行こう、と言ってる言葉自体が邪魔なのかな、と思いましたが、サンスクリット語を私が語学として言語を知っていたら「ぎゃーていは必要だよ!」と思ったりするのかな、と聞いてみたくなりました。
ありがとうございました
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
睡眠さまたげてごめんなさいアルね🐧 「去来今」にアラジン
呼ばれて飛び出でジャジャジャーン🍖
私も昔はそこが永遠の謎だったのでハァッ!( ゚Д゚)と真意が読み解けた時は🐔グエーとなりました。(シメられたんかい)
道元禅師という鎌倉時代のパンクロッカーは悟って結局どーなんのかっ?てところを「宝蔵自ずから開いて受用如意ならん」とか「脱落身心」とか「自受用三昧」とか謎のダヴィンチコードで説示。実はメチャ生活レベル説いてるンです。そこが道元禅師が仏ッ飛んでるところでして。(仏ットン言わない)全部、この自己の身心の作用。今の目線で見れば明らかになるンです。
今日の寒さ一つも罪一つ無いのです。若い男女は寒さを理由にくっついたり♨するんですから。もう。キャー。
一方私どもは托鉢でkuso※寒い中ずっとギャーテーギャーテー言いながら街中歩くんですわ。※空相の意か
十年もやってると私のようなパーでも確信持ってわかるところがある。ああ、行くとか、去るとかの理屈じゃねぇ…そんな所。( ゚Д゚)学者さんの言う文字ヅラの意味の解釈ではない所。
たとえばお茶飲んだ時。その味は来るのか去るのか今とどまってるのかって話ですわいの。(´◉◞౪◟◉)🚬
去るとか来る言いますが、モノもコトもあらゆる感覚は来るンか去るンか?そこに答えがありまっひょ?アート畑の人ならわかりは早いはずでっせ?
三昧というのは理を絶してそのことにビビビなりきってて自分ともの(ホトケ)とが完全同期。中華三昧言いましても作ってるんは日本、食べとるんは自分三昧味三昧。どっちが本体か無いままに一枚なのです。二枚の肉も併せて揚げれば一枚。分断するのはアタマです。よって「思考・分析・隔て」MINDで物事を見ればティッシュ一つでも紙、繊維、一枚、薄いのが二枚、白い、文字書けない、軽い、安い、使い捨ての紙、何とでも言えるのです。✨讃えれば、ティッシュ様こそはァー人類のあらゆるおこぼれを自ら進んで吸い取ってくださるのです。鼻血の時も、ヤめる時もスコやかなる時も生命の営み時にもケッコー🐔貢献しているまさにカミ様。
この身に映し出されるコト・感覚・現われの一切はキテいるのか、行っているのか。
ものの真相は言語が介入される前の状態が最初にある。
あると言ったとたんにない。無いと言っても実感や作用はあるからアラジン。
法のオトがこの身に現ジテイルとでもいいまひょか。
この身に来たる全てがギャ(以下略)
般若仏母菩薩
こんな話もありますよ。
般若の智慧の菩薩さまに呼びかけている言葉。
「お母さま、お母さま!彼岸に行ったお母さま、般若母神よ、悟りを与えたまえ」
(意訳)
般若波羅蜜多女神への讃歌(真言)の効果を説いた短いお経
般若心経。
智慧は悟りを生むので、「母」とされたんですね。
(prajnaparamita、女性名詞)
質問者からのお礼
再来ありがとうございます!
テンション、高いですね、現代人の生活で出会うものをたとえに盛り込んでいくところが、道元禅師さまが何がしたかったかに惹かれたんだな、と伝わってきました。
この中ではティッシュが一番心に刺さったかな、「あなたがそこにいて良かった!」と思った場面は多く、…もう主題から外れていきそうです。
禅のどこかで、知りたがりの弟子の前で「これが邪魔」と経典を燃やした人がいたかと思います。それを思い出しつつ、私の最初の般若心経との出会いでは、『彼岸に往きて』でした。当時から今も語感で訳すとしたら、私には「先祖来てるからそろそろ臨終してあっち側へ往くとすっか!」みたいな感じです。
調子に乗って、英語でニルヴァーナへぎゃーてい、は何て言うの?と思ったら、そのまま『ニルヴァーナへゴー』のようです。
ネイティブにはどう感じるか実感が沸かないので、終生この言葉は使わないと思います。
ところで念仏が『行こうよ〜行こうよ〜』だったとしたら、煩悩を感じずに唱えるようになるまで、般若心経よりもっと時間がかかる気がします。
『ぎゃーていぎゃーていはらそーぎゃーてい』の、「あなた誰ですか」と聞きたくなるような分からなさが、唱えるならこの中では一番実態のなさをあらわせてるかな、と考えたりしていました。
他に、ギャーテーギャーテーと托鉢を、のくだりは深いです。一般人やらないですから、あの中で何が起きているんだろう、とヒトを眺める事になります。削ぎ落とされた景色にはじめて荘厳を知ったかのように感じる場面です。
知ってる側が、※…の意か、と行為に生じる真意を特定しないのがまた一層、深いですね。
いや、最後のギャを、敢えて途中から全部切り落として真意を無くしてみせるところか。
自分にとっての個人的体験としては…お坊さんて、面白い、んですねと知りました。
沙門さま、色々興味深いご回答でした。夕べ寝るときにプロフ変えたいと思ってから寝ました。このサイトを見つけた登録の日に急にプロフと煩悩を考えさせられ、ずっと思いを巡らせていて、今日は書き直そうと腰をあげたら、お坊さんから回答があるとの通知が来ていました。
真っ先に彼岸にまつわる逸話(説法?)が実際にあるのか。この女性のパワーワードだったのだな、と思いました。
parajinaparamita女性名詞、とそっと添えてある方にもっと驚きました。この部分、名詞だったの?で、女性?般若心経がいままでと少し違って見えます。
お名前も気になりました。
”道中二人”と聞かされて、えっまじ上人いるの!? 頑張れるわ! と反射的に考えた人は多いだろうとつらつら考えてから夕べ眠りについていたのです。
ありがとうございました。