神仏習合について
お久しぶりの投稿になります!
ふと気づいたことがあるのですが、神仏習合の考えを持っている方や信仰をしている方はまだ存在するのでしょうか?
自分はその考えに賛成だと考えていますが、今の時代信仰しても大丈夫なのでしょうか?
すごく気になる質問になります!
どうかご回答よろしくお願いします🙇🏻
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
おはようございます。
神仏習合とは、仏教と、古来より日本で信仰されていた神道を融合した信仰の事ですね。
仏教はインドで発生しましたが、その教えはインド古来からの信仰と混ざり合い、中国に伝わったら中国にあった信仰と混ざりあい信仰されてきました。日本に伝わって日本の信仰と混ざるのも当然の流れだったのでしょう。仏教はもとからそのような様々な教えを取り込む能力をもっている宗教なのでしょう。
明治政府は仏教と神道をわけるような政策をうちだしましたが、すでに混ざっているものを元に戻すことは不可能です。一度混ぜた絵の具を元の色に戻すことができないのと一緒です。
これからの仏教も仏教以外の教えを排除する方向にはいかないと思います。大丈夫ですよ。安心して神仏を拝んでください。
神と仏2-1
まず、神と仏はどう違うのかということです。
元々仏教家では、仏は主であり神は従であると考えてきました。神道家は仏は異国の蛮神であると考えてきました。キリスト教徒は仏はやはり人間であり神ではないと考えてきました。しかし、それはいづれもお互いの偏見であります。
およそ宗教の信仰対象に現実の人間はいないはずです。皆、霊として存在するものです。古来より日本では霊として尊愛するもは、神霊であっても、人間の霊であっても動物の霊であっても自然の霊異なるものは、すべて「カミ」と言い表してきました。
仏教における仏陀は、もちろん霊的な存在ですから、本来ならば「カミ」と言わなければならないのですが、昔から「ホトケ」と言い続けられてきたために、このような問題がおきたのでしょう。
そして、そもそも「ホトケ」とは何語なのかということです。
「ホトケ」の語源はいくつもの説がありますが、大きくは意訳説、伝説訛音説、伝音説、意訳訛音説の四種になります。
意訳説は、仏教は糸のもつれた人の心を解きほどくものであるから「ほどける」から「ほとけ」と称するもの。
伝説訛音説は、仏教が渡来した時、廃仏家の物部氏は仏像を火に焼いたが、焼けなかったので、難波の堀に投じた。のちに聖徳太子がその仏像を水中から拾い出してみると、不思議なことにまだほとほりけ(暖気)が残っていたので、「ホトケ」となった説。又、蒙古では王を「ホトフ」といい、ラマの聖賢を「ホトクト」と言っていたので、その敬称であるゆえ、日本に伝わり「ホトケ」となった説ですが、いずれもハッキリとしたものはありません。徳川時代の学者伊勢貞丈が説いた、音訳訛音説の、原音が訛って「ホトケ」になった説が有力です。これら詳細はありますが、文字制限にて割愛します。
又、なぜ仏教が中国に伝わったとき、なぜ「仏陀」を「神」に翻訳したなかったのかですが、中国における神の概念とインドの仏陀の概念は一致しなかったということで、霊的な知ることが出来ない見えないものを神としているが、仏陀は人間釈尊が覚りを開き、その地位に到達したのが根本であるゆえ、漢字の神という概念では表せなかったのです。又、インドの仏教では、バラモン教の「梵天」「帝釈天」も仏陀の方がはるかに高い地位にあったので「仏陀」を意訳する漢字がなかったのです。(2-2へ)
質問者からのお礼
こんにちは!ご回答ありがとうございます。お礼が遅くなりすみません🙇🏻
翻訳上の問題や混じりあった信仰があったのですね。とても勉強になりました☺
おかげさまで神仏習合を信仰しようと考えました!
ご丁寧に回答してくださり感謝しています。ありがとうございました!
🙏