死にたいのか生きたいのか
私は、小学生の頃から死にたいとおもっていました。おとなしい子供でしたが、他の子供に比べ個性がなく、特筆した特技もありませんでした。
そればかりが、愚鈍で頭も悪く、いつも教師に怒られていました。
五年前にうつ病を患ってから、発作のように死にたい感情が強くなるときがあります。そのときは、黙って耐えるしかありません。
そんなおり、体の不調で薬を買いに行きました。
しかし、なんで死にたいのに、元気になろうとしてるんだろう?
矛盾していて、胸がざわざわしました。
倒れない程度に瀉血をし、薬をのみ、家族のなかに居場所を作るために、家事や介護をする。
私がいなくても、母が全てまかなってくれるでしょう。私がいなくても、家族も社会も大丈夫です。
それなのに、自分の体を治そうとするなんて。死にたいと思っているはずなのに。
何度か、睡眠薬や頭痛薬を大量にのみましたが、丈夫だったせいで生きてしまいました。
私は、自分の脳ミソが腐っていて、生まれてからずっと、他人のいうことがまともにできなかったのだと思います。
銃社会であれば、とっくに自分の頭を吹き飛ばしていると思います。
首吊りも、中途半端で、完遂できませんでした。
こんなに死にたいのに、生きている自分を殺してしまいたいです。
できることなら、自分の命を、生きたい人に差し上げたいです。
ただ、気がかりがあって。
それは、残される家族と、私を診察してくださった先生です。
できることなら、自分の人生をなかったことにしてしまいたいです。
思い付くのは、身辺整理くらいしかありません。
他人の心から自分を消すには 、忘れたくなるような罪を犯すことが最善でしょうか。
それとも、富士の樹海のようなところで、ひっそり逝くべきでしょうか。
自分を自分でどうにもできません。
苦しいです。
前職、カフェ店員。12年間東京にいましたが、うつ病の悪化のために実家にもどってきました。今は、仕事はしていません。 家族は、祖母、母、弟と暮らしています。 父は、私が小学中学年のときに離婚。かなりの借金を抱えていたようです。 祖父は、3年ほど前にガンでなくなりました。 私は、とても面倒臭がりで、プチ買い物依存症のようなところもあります。 ただ、八方美人で、どうしても周囲の人にいい顔をしてしまいます。 母はわたしのことを病気だと言って、気持ち悪いだとか言っています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたがいのちを生きているのではない。
"こんなに死にたいのに、生きている自分"
人が亡くなるとたいていお葬式を挙げますが、その時に用いるお位牌などには【享年◯才】あるいは【行年◯才】と記入します。満年齢よりも1つ多く数えます。お寺の過去帳にもそのように記載します。ですから、もし生まれたての赤ちゃんが亡くなってしまった場合、やはりお位牌には0才ではなく「1才」と記入します。つまり、これは一般的に人はこの世に産み落とされてから年齢を数えるのに対し、仏教ではお母さんのお腹の中に命が宿ったその時点からカウントしているという事です。
順番を間違えていませんか?あなたという【自我】よりも先に【いのち】がありました。【自我】の上に【いのち】があるのではない。いのちの上にあなたという自我がちょこんと乗っけてもらっているだけです。あなたがいのちを生きているのではありません。いのちがあなたを生きているのです。
かつてあなたに何があったのかは知らないが、あなたの社会的地位も所有財産も何も知らないが、あなたという自我の大前提にある【いのち】は、少なくともあなたが勝手に処分できるような安っぽくちゃっちぃモノではない。
死にたいし、生きてもいたい。
誰もが
生きている中で辛くなって
死にたくなったり
消えてしまいたくなったり
思うことは普通にあります。
ただあなたはそれが
幼少の頃から頻繁に起きていて
ずっと辛かったのですね。
自分には生きる価値が無いと思っているでしょ?
でも生きる意味はあります。
ご家族やお医者さんのことが気掛かりなのは
自分が死んだら
その方々が悲しむのを分かっているからです。