浄土真宗の永代供養について
浄土真宗では追善供養が必要ないから行わないことは知っているのですが、永代供養も同様でしょうか?
調べたら浄土真宗では永代供養はしません!ということですが、さらに調べると納骨堂やお墓と絡めて永代供養を大々的に打ち出しているお寺も多く見受けられます。
供養の本来の意味を考えると浄土真宗において永代供養の語を使用することは問題ないのかなと思うのですが先生方はどうお考えですか?
ちなみに永代供養と永代経の違いは承知しております
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
永代供養は行わないのではなく、出来ない
こんにちは。
前回もお答えしましたね、またご縁がありました。
「永代供養と永代経の違いは承知しております」、とのこと。粗方ご存じのことと思いますので、簡単に述べます。これは浄土真宗本願寺派の私の立場からの回答です。ここでは、いわゆる永代供養の「供養」についてお答えします。
供養とは、そもそも「ものを奉げて回向(えこう)すること」です。日ごろ蓄えた良き行いと功徳を、故人に向かって奉げるということが回向であり、供養です。行い、発言、心が全て浄く整ってなければ実現できないのが供養です。我が宗派においては、善導大師の仰るように「雑毒(ぞうどく)の善」、つまり煩悩という毒のまじった行いしかできないのが衆生です。このため供養は行うか行わないかではなく、教えの上から「出来ない」のです。
具体的に浄土真宗の寺院で永代供養を銘打っているところも知っていますが、以上のような教え上のことをどうお考えなのかは分かりません。
お分かりかと思いますが、このページをご覧になる後の人のために簡単に説明します。
永代経:永代にわたってお念仏のみ教えが続いて欲しい。亡きお方は阿弥陀様のおかげにより極楽へ往かせて頂いた。私も往かせて頂く。このみ教えが末代まで続いてほしい、このためにご懇志をすること
永代供養:故人の為に功徳を振り向けて、故人の為に追善供養する。これを永代にわたって行うための懇志
ご参考になれば幸いです。
浄土真宗でも供養はする
浄土真宗で追善供養はしませんが供養をしないわけではありません。
浄土真宗の供養は讃嘆供養です。亡き人を私にとって仏様と見出し、その徳をほめ讃える供養です。
ただ単にほめ讃えるのでなく。「仏様と見出す」、つまりは教えと出あうことが願われます。
ならば永代供養も亡き人を縁としてお参りする方が永代(長きに)わたって仏様とその教えに出あってほしいという願いとなるのでしょう。
色々矛盾を言い出したら「永代」自体が仏教の諸行無常に反しますしね…大切な事はどこに願いがあるのか?ということではないでしょうか。
供養の新しい視点
納骨やお墓との繋がりが強すぎるから供養するしないの話になるのかなと思いました。
今一度、見つめ直す視点をいただきありがとうございます。
仏弟子を縁とした利他の讃嘆・報恩行の認識でいましたが、、発想の転換をしました。
50年ほど前に浄土真宗の各派で構成する真宗教団連合という組織が立ち上がりました。
ここでは
https://www.shin.gr.jp/about/kensho/#a03
世界平和の進展と人類永遠の福祉に貢献することを目的にしてます。
納骨堂やお墓と関連した供養の扱いでなく、平和や福祉の護持という視点だと供養の意味合いも変わりますね。
仏縁としての讃嘆供養
浄土真宗の御仏事は全てが
阿弥陀さまに出遇うための御縁です。
永代供養も
一般的には永代に亘って追善供養するためですが
浄土真宗では
永代に亘って讃嘆供養する寺院が
護寺されるようにと願う御仏事です。
質問者からのお礼
お礼が大変遅くなりました事を深くお詫びいたします。
皆様方のご回答のお陰で心のもやもやが晴れたような気が致します。
「讃嘆供養」は初めて聞いた言葉ですが調べてみたら五正行というものに行き当たりました。浄土真宗でお墓や納骨堂を売り出すための苦し紛れの言葉かと思いきや、歴史のある言葉だったのですね。
私は門徒ですがこれからは堂々と供養できます。本当にありがとうございました!