本人に余命を知らせないこと
いつも親身に聴いて下さりありがとうございます。
私の忘れられない患者さんについて、相談させてください。長文になります、申し訳ありません。
私がまだ新人の看護師一年目の時の話です。
婦人科系のガンを患い、一通り治療をしましたが、状態が悪くもう抗がん剤は使えないといった終末期の方でした。
医師より、
これ以上の積極的な治療はかえって寿命を縮めるため勧められない。との説明がありましたが、
・本人は状態が回復したらまた抗がん剤をやりたい。自身が終末期だとは思ってもいなかったような感じでした。
・家族は『今後の余命については本人に知らせないでください』
とのことでした。
日々状態は悪化し、全身に回ったガンの痛みと闘う日々となっていきました。もう余命1ヶ月もつかどうかといったところでした。
最初は内服だった鎮痛剤も注射薬になり、それでも痛みが取れず医療麻薬の貼付剤から麻薬の注射に変わっていきました。
最期に使う麻薬の薬は鎮静剤もはいっているので打ち始めると眠たくなって、眠ったまま逝くような形になります。
ある日先生から本人に『痛みがだいぶ辛いところまで来ていると思うのですこし眠くして痛みを和らげる薬をしますね』と告げられる日がありました。先生の話の後部屋で足浴をしながら2人きりになった時、その方は苦しそうな表情で
『私は...もうすぐ死ぬの?』
と問いかけられました。私は答えに詰まってしまい、何も答えられませんでした。
その後鎮静が始まりそのまま起きることもなく1週間ほどでお亡くなりになりました。
『私はもうすぐ死ぬの?』
の問いにどうかえせば良かったのだろう。
本人もわかっていたと思うんです。日々重くなる体、正常に作動しない思考、象の足のように浮腫んだ足、パンパンにたまった腹水でうまく呼吸ができなくなる、おしっこが出なくなる、ごはんが食べられなくなる、本人が1番自身が死に向かっていることをわかっていた気がするのです。なら私はなんて言葉を返したら良かったんだろう。
余命も分からず、状態が良くなるのかもわからず、でも自分の体は朽ちていくのは怖かったんだろうなと色々思い馳せてはあれこれと考えてしまいます。
今でもあの方の
『私はもうすぐ死ぬの?』
の問いに答えが返せません。
僧侶の皆様はどのように返しますか?ご助言よろしくお願い致します。
人の生、死に身近に触れる現場で働いています。人の命、生死、生き方について考えることが多いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
深い問いを抱えて生きる
美しい文章を読ませてもらいました。
この問いに答えられる人はいないのではないかと感じます。
ただ貴方がこの問いを荷って訊ねられる生活にのみ、答えが与えられるのではないでしょうか。
患者さんに『私はもうすぐ死ぬの?』と聞かれて答えに詰まったのは自然なことです。
私にはお二人のお話されるご様子がとても尊く、ここに人間の大きな問いがあると思われてなりません。
私からのお願いですが、焦って答えを得ようとしないでください。大切な問いを答えではないものと引き換えないでください。
人間の尊さとは答えを出すことではなく、問いを抱えて生きることにあるように私は思います。
お辛い思い出ですね。
ご家族からは
『今後の余命については
本人に知らせないでください』
とお願いされていたのですから
何も答えなくてよかったのです。
僧侶でも同じです。
ご家族から何もお願いされていなければ
「そうなのかもしれませんね」と返して
ただ寄り添うしかできません。
ケースバイケースで
一つの決まった答えはないと思います。
医師のキューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』(和訳があります)で死に向かう五段階について説かれていたりして、医療者は、特にこの問題について考えることが多いと思います。
しかし、どうか医療者まで悩まないでください。
スリランカや東南アジの上座仏教では、死に向かう態度に、明白な基準があります。
仏教では悟らない限りどこかに生まれ変わるのが当たり前で、しかし転生先が良いところか悪いところかが大問題なので、本人が自分の死に向かって不安そうか、不安でなさそうかで、対応を変えます。
不安そうだったり何かにおびえているようだったら、その人の人生で行なった何か善いこと(その結果、嬉しかったこと)を思い出させて、「あなたは立派に行動したね。また、こういう善行為ができたらいいね」などと、励まして心を強くし(て死に向かわせ)てあげます。
死にそうなのに、なんだかにこにこして嬉しそうなら、そのまま「良い人生でした。次も立派な歩みができるように頑張りましょう」などと、ますます励まします。
「怖い人が来るの」などと良くない感じのことを言うなら、「夢でも見たんでしょ。そんなバカなこと忘れて、あなたはこんな良いことしてきたんだから、しっかり生きましょう」などと良くない感じを否定して、心をなんとかプラスに持って行きます。
「なんだかお花畑が見えてきれいだった」などと良い感じなら、「それはよかったですね。そういうところに行ってみたいですね」などと肯定するのです。
誰でも良いことも悪いこともしていますから、良いことを思い出せるように、悪いことは、忘れて良いことを思い出させるか、相手が存命ならば伝言ででも懺悔してすっきりして、覚悟を決めて次の世界に踏み出せるように、周りも努力します。
ただ、来世とか全然関心ない現代日本では、少し難しいです。無理しないでください。真実だから、事実だからといっても、馬鹿正直に言えばいいものではありません。ウソはいけませんが、事実を伝えないほうがよい時は、ただはぐらかすのが、次善の策です。
質問者からのお礼
僧侶の皆様、ご助言していただき誠に有難うございます。
あの時何も答えられなかった私に対し、今も答えが出ないことが、人の痛みや病に付き添う看護師として看護力が足りないのだと情けなく思っていました。
あの時あの方の心からの訴えに私ではなく、他のベテラン看護師ならその人の心が死を前に少しでも救われたのではないかと。こう思うこと自体が傲慢かもしれません。
けれど、今まで考えて答えが出なくてモヤモヤしては忘れるように蓋をしてきたことがこの場で蓋を開けて答えを急がなくてもいいのだとホッといたしました。
あの頃を振り返ってやっぱり思いますが、得るものも多いですが寄り添うとは辛いことですね。
有難う御座いました。