お経への向き合い方がわからなくなっている
ある方から新興宗教への誘いがあり、お経というものに初めて触れました。
自分の人生色々あったので、懺悔とかそう言った意味での読経してみようと思い始めました。
ただ、その人と付き合い会うたびにその人のお友達を紹介され、その友達によるとSNSの情報は間違っているだのとか、
他の宗教は正しいお経を読んでいないから、うちのは正しい教えに沿っているから功徳があるとか、
持っているお守り、お札は功徳を得るには邪魔だから処分しろとか、読経を続けていれば社会がどうなろうと守られるとか言われました。
お守りやお札はとても大切なもので処分することは耐え難いものです。
宗派によってそう教えるものがあるものでしょうか。
そう言ったことを言われこの宗派での読経は止めるか迷っていますが、読経自体は辞めたくないと思っています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
善き人の香りは、風に逆らいても匂う
お経を読むお手ほどきをしてくれるのは、有難いことですね。せっかくお経を読むなら、美しく優しい心になりたいですね。仏教で教えを説くことを説法と言います。説法には、2種類の種類があります。一つは口業説法。言葉を用いて教えを説くことです。もう一つは身業説法。自らの在り方や行動を通して教えを示し伝えることです。
お釈迦様の十大弟子の一人にサーリプッタ(舎利沸)という方が居られました。サーリプッタは道を求めて出家し、高名な宗教者サンジャヤに師事し、修行に励みました。或る時サーリプッタは、王舎城の北門近くで、アッサジという修行者が托鉢から帰るところに出会い、見事な立居振舞いとその端正な姿にうたれ、「あなたの師は誰で、どのような教えを説かれるのですか」と訊ねました。
するとアッサジは、「私はシャカ族出身の偉大な聖者に師事しています。まだ入門して日が浅く、その教えを詳しく説くことはできませんが…」とことわりながら、自分が学んだことを伝えました。それを聞いてサーリプッタは大いに感銘を受け、お釈迦様の弟子と成る事を決意しました。
https://ameblo.jp/dorinji/entry-12510258701.html?frm=theme
経典は大事です。其のことを言葉で伝えることも大事です。でも、教えをどのように受け留め、自分自身の立居振る舞いに活かしていくかがより大事ではないかと思います。
と書きながら、我が身を振り返るとただただ恥じ入るばかりです。hasunohaでの私の回答はいつもダラダラと長く、多言を弄してばかりです。無駄な言葉ばかり多用せず、一言を以て一挙手を以て教えを示せるようになりたいと反省しております。
宗教者でなくても、経典が説く内容を見事に短い詩に表している方が居られるので、紹介します。
うしろ姿
語る人貴し
語るとも知らで
からだで語る人さらに貴し
導く人貴し
導くとも知らで
うしろ姿で導く人さらに貴し
詩集『一人のために』(安積得也)より
執着は悩み苦しみの原因
新興宗教への執着も、お札やお守りへの執着も、どちらも悩み苦しみの原因になりますから善くありません。
七夕やクリスマスや節分の豆まきなどのように、イベントとして楽しむ程度ならかまいませんが、本気でのめり込むのは間違いだと思います。
お経は、書かれている内容(ブッダの教え)が大切であり、お経を唱えているから守られるとか、そのような魔法の呪文みたいなものではありません。
そのような新興宗教は、本気で相手しない方が良いと思います。
仏教は「抜苦与楽」
不安を煽ったり
他の宗教宗派を否定したりするような宗教は
邪教です。
読経がしたいなら
先ず伝統仏教の御本山の
HPをご覧ください。
御経本やCDが紹介されています。
追伸 浄土真宗の東本願寺の物をご紹介しますね。
https://higashihonganji-shuppan.jp/books/k00005/
質問者からのお礼
願誉浄史様
ご回答ありがとうございます。執着とは思いませんでしたので思いがけず驚きました。
吉田俊英様
ご回答ありがとうございます。立ち振る舞い、活かし方ということこれからのことが見えた気がします。最後の詩はとても良く為になりました。
和田隆恩様
回答ありがとうございます。
先ず伝統仏教の御本山のHPをご覧ください。とはどう言ったものがあるのでしょうか?興味があります。