解脱って怖い?
昨今の陰鬱とした情勢の中、多忙を極められておられるであろう僧侶の方にご相談をさせて頂けることに感謝いたします。
私は、宗教や哲学などの学問に興味があるのですが、仏教における「解脱」という考え方に一抹の不安を覚えています。
といいますのも、この概念は様々なしがらみから解き放たれ、心が安らぐという点で素晴らしいと思う一方で、考えようによっては自己研鑽や他者との競争といったものを一蹴し、様々な枠組みを冷めた目線で見る無情で腰の引けた概念にも捉えられるのではないか、と思っているからです。
例えば、世俗では結婚を是、独身を非とする意見を度々耳にするのですが、私自身は伴侶の有無だけで人の貴賎が決まることはない、もっと言えば、そんな二項対立などで張り合いしないで平和の範疇で気楽に生きればいいのにと思っています。
ところが、ある時似たような意見を呟いた方が、ネット上で「生存競争についていけなかった腰抜けの負け惜しみ」、「生命や家族の尊さが分からない薄情者の言い草」といった罵倒を浴びせられているのを見て、この意見は既婚者の方や婚活を本気で行っている方に対して無自覚の批判や無粋な発言になり得ると悟らされたことがあります。
私自身は、特定の誰かを見下そうという気は全くないのですが、多くの人は何かと甲乙つけたがるものらしく、今に至るまで自身の本心が話せず度々肩身の狭い思いをしています。
そして、私が何より恐れているのは、この考え方を極限まで突き詰めた結果、今回の相談含め、全ての悩みについて「んなもんどうでもいいから腹でも切ってさっさと涅槃においでなさい」と強引に押し切られることです。こうなると最早立つ瀬がありません。
ただ、一つ思う所があるのは、「救世を考えるお釈迦様や僧侶の方々がそんな本末転倒な事言う?」ということです。
思えばこれまでハスノハでお世話になった方々からそんな極端なコメントを頂いたことは全くないですし、私が浅学の身で解脱という概念を持ち上げる余り甚だしい見当違いをしているとも思われます。
長々と語らせて頂き申し訳ないですが、私の悩みはこんな感じです。
今一度断っておきますが、私はこの概念を弱さの言い訳や他人を足蹴にする詭弁に使うつもりは毛頭ないです。
そのことを踏まえて、本職の方に解脱という概念について忌憚なきご意見をお聞きしたいと思う次第です。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
解脱の意味が違います
200年前に仏教に初めて触れた西洋人も、自分たちが持っていた虚無主義という哲学に当てはめて、仏教の解脱は虚無を目指すものだと騒いでいました。だんだん誤解は解けましたが、現代の日本でも、何しろ明治以降、西洋から新しいものを学びましたから、解脱を虚無だと思っている知識人が結構多いです。
仏教の善は二段階あります。一つは修業して煩悩を滅して解脱するという善。これは世間の欲を全部不必要と分かって、満足して手放すので、解脱した後、肉体の死が訪れるまで、欲も怒りもない生き方になります。他の生命にとって、これほど有難い見本や助けはありません。釈尊や阿羅漢の弟子たちが行なった生き方です。
もう一つは、煩悩をやり過ぎない程度に冷静にとどめて、世間で悪いこともするかもしれませんが良いことを励む、そして死後は良いところに生まれ変わる生き方です。その世間の善の一つが、2600年前のインドでは、結婚して子供に跡を継いでもらう生き方です。現代日本では、世間の善の基準は、もう少し変化したかもしれません。
世間で悪を離れ善に親しんで、死後は天に生まれ、天の寿命が尽きたらまた人間に生まれて善を励む。こういう輪廻なら、悟っていなくても、苦しみ少なく楽しくいられます。
そういう世間の善に飽きたら、悟りを目指して修行するのも良いでしょう。
質問者からのお礼
ご相談に乗っていただきありがとうございます。
仏教と虚無主義の混同という話は初めて聞きましたが、自身の疑問に対する最適解として腑におちました。
コメントを頂くまで、解脱については全ての枠組みから解き放たれるものだと思い込んでおり、この概念を自身の人生の都合の良いように扱うのは曲学阿世のようだと尻込みしていたのですが、わざわざ身体を離れなくとも、心が解放されていればそれは涅槃であると思うのも一興であると思いました。
浅学が生んだ疑問でありながらご丁寧に返信して頂いたこと今一度感謝いたしますと共に、今回お返事を頂いた藤本様含めハスノハでご活躍されている皆様の御多幸を祈っております。