全て無意味な気がします
最近、勉強や遊び、本を読んでる時など、「いつか死ぬのに生きる意味はなんだろう」と思う事があります。
頑張って何か功績を残せば、それが後世の人々に影響を与えるから意味がある、という考え方も出来るのですが、数億年後?には地球も無くなってしまうそうで、だとしたら私たちが生まれてきて勉強したり仕事したり遊んだりする意味って一体なんだろうと思ってしまいます。
意味なんかなくても良いのかもしれませんが、どうにも虚無感があり不快です…
お坊さんは、虚しくなった時どうされますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
不快かもしれないけど大事な感覚です
ご相談拝読しました。
おっしゃるような感覚というのは共感します。私も感じることがあります。生きることに意味があるとするのも、ないとするのも、どちらの立場も同等に主張できる二律背反的な命題が「生きる意味」の問いです。
そこでパッと思いつくのは
『あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。』
というガンジーの言葉でしょうか。
確かに生産性とか改革とか革新とか享楽とか…あらゆる生きがいとされるものは死で奪われるであろうものであり、そこには虚無感が漂います。
しかし私たちはそれでも生きている。意味を見出そうと見出せまいと生きている事実が先にあります。
ならばその私がこの虚無感をどう生きるのかという「問い」こそが、これが生きる意味だという「答え」よりも私たちに生きる力を与え続け得るものなのではないでしょうか。「答え」は消費されてしまうものであるため究極的な満足には至らないからです。つまり、あなたの問いはとても大切なものであるということです。
虚無感に流されるままの生なのか、虚無感に問いをもって主体的に歩む生なのか。
それがガンジーの言葉から問いかけられるメッセージではないでしょうか。
酒や薬や刹那的な楽しみではけして埋められない問いが「生きる意味」という根源的課題です。薄っぺらいものではごまかせない深い課題です。
そしてその根源的課題に応えようとするものこそが宗教であり、教えというのは人々とその課題の格闘の歴史です。
私も虚しくなることはありますが、その時に虚しいという私の感覚を根拠とするのでなく、虚しさを感じるのは私が迷っているからであり、しかも迷いながらも真実を求めているからなのだ、という教えを根拠として根源的課題に立ち向かいたいと考えます。
勉強したり仕事したり遊んだり…どれも大切ですがそれだけでは済まないものがあることにあなたは気づいてしまったのでしょう。
その気づきを大切にしていただけたら有り難いです。よかったら仏教にその気づきを尋ねてみてくださいね。
人生に意味を後付けすることを考えてみる
人生に関わらず、すべての事象に意味があるのだろうか?と私は過去に考えることはありました。
縁あって仏法を聞く身になり、次第に「あらゆる事象はある法則には従っているが、そこに『意味』というものが介入する余地はない」というふうに考えるようになりました。例えばですが、水が上から下に流れることに意味を見出すこと自体ナンセンスだなと…。
しかし、人生に素敵な意味を後付けすること自体は私にとって有意義なことであるように思えるので、私は私自身に「住んでいる地域に恩返しする」という人生の意味というか、生きがいを見出して精進しております。
ご参考になればと思い、お話させていただきました。
私も考えを文字化することで整理がつきました。
不老不死なら有意義でしょうか?
「今を充実させたら死後は良い世界に往ける」
なんていうのも何の保証もありませんが…。
先のことを考える前に
今をどのように楽しもうかと
考えませんか?
今が楽しめないから
先のことを考えて
言い訳にしているように思えます。