過去の体験から不安になります
ご相談させていただきます。
私は現在20代後半です。
兄が1人おり、その兄は10代〜20代の間には感情の起伏が特に激しく、怒りが抑えられないときは自殺をすると言う、またそのような行動をしたことが何度かありました。
また、兄は長い間引きこもり、とまではいきませんがニートのような状態にもなっていました。
当時自分は学生で、かなりストレスを受けており、病気とは思いませんがこの先どうなるんだろうという不安と憂鬱と一緒に暮らしていて毎日どうにかしてくださいと神様に祈っていました。
私が20代半ばになる頃に、兄は定職につき両親も私も安堵しました。
私は家族と離れて暮らし恋人ができ、自分の幸せで過去のことは忘れていました。
一年ほど経った今、浮かれていた自分が落ち着いてきたのか急に過去のことを思い出し、兄がまた自暴自棄になったらどうしよう、と不安になることが多くなりました。
兄は30代になりますが実家を離れておらず、将来1人になったらどのように暮らしていくのか不安です。
友人もおらず、仕事以外ではすることはゲームのようです。
また、子どもが独立せず、高齢になっても子どもの世話をし家事を全てやってあげている自分の両親は不幸なのではないかと無意識に感じてしまい、時に虚しさを覚えてしまいます。
両親もどちらかというと内向的で愚痴をこぼすタイプで、私が一緒に住んでいたときは明るく励ましていたのですが今は離れており友人もいないので寂しいだろうと考え時々罪悪感のような感情に苛まれます。
皆が独立して幸せになってほしい(兄にも大切な人を見つけてほしい)と思い、
今の状態でも両親や兄は幸せなのかも知れませんが、自分の価値観がそう思えなくしているように感じます。
また、自分がお付き合いしている男性は快活で社交的、家族とは全く真逆のタイプなので彼やその家族に自分の家族を会わせることが恥ずかしいと思ってしまう自分が情けないです。
分かりづらい相談ですみません。
未来に希望をもって、前向きに生きるためのアドバイスをいただきたいです。
長文をお読みいただきありがとうございました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
諸行無常ですから
こんばんは。「諸行無常」って、お聞きになったことはあると思います。これ仏教的な人生観なのですが、どうも誤解されているーというか一方的な使われ方をしていると思っています。
「何事も、いつまでも続かない」が意味ですが、多くの場合「今は調子が良くても、永遠ではない」という感じで受け取られますね。しかしこれ、「今は調子が良くなくても、永遠ではない」とも言えるのです。「どちらにしても、未来永劫このままではない」というのが「諸行無常」なのです。
いま、あなたはお幸せのようですから、「これが永遠には続かないのかー」と理解すれば、辛い言葉ではありましょう。しかし、「未定=未だ起きていないこと」について、続くも続かないもないわけです。今時で言えば、「どちらかがコロナに罹るかもしれない」わけです。「永遠には」続かないと思っていれば、「そんなこともあるよね」と言えるでしょうけれど、「私は永遠に幸せなはず」と思い込んでいれば、「嘘だ、裏切りだ、おかしい」と、自分の考えに固執する結果になりやすいのです。
ですから、お兄さんも昔の生活態度と違ったお兄さんになった。変わった(無常だった)。
これが先どうなるか?は分かりません。さらに願うように変わっていくか、そうでもないか、或いは望まない方へ行くか。未定です。
そう思うと無力感にかられるかも知れません。それは「未定なこと」を相手にしているからです。
もうお分かりでしょうが、あなたが作用を及ぼせるのは、「今、手の届く範囲」のことしかありません。せめてそこに精一杯の力を注ぐ。私たちができるのは、それしかありません。誰にとっても同じことです。
ご両親が心配なら、その時々に連絡を入れてあげましょう。苦しんでいる様子であれば、手を出せるところは出しましょう。それで十分だと、私は思います。