お浄土に行けば逢いたい人に逢える?
仏教が好きです。
お浄土や浄土宗、浄土真宗の教えに詳しくないのですが、お浄土に行けば逢いたい人に逢えるとは本当なんでしょうか?
人間なら誰しも逢いたい人はいると思いますが、誰もが寿命を全うしたら、逢いたい人に逢えるなんて有難い教えですね。
お浄土についてもっと知りたいのですが、お浄土って一体どんなところだと云われているのですか?
それから、お浄土に行くにはどうすれば良いですか?生前の行いが評価されるのですか?
質問がたくさんあって申し訳ありません。
初歩的な質問ですが、お坊さまのご見解をお尋ねしたいとおもいまして質問させていただきました。
宜しくお願い致します。
食べること、恋愛体質 対人トラウマ、人付き合い苦手 友達が出来ません 独りです
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
広大無辺際
ご相談拝読しました。
仏教が好きなのですね。「そして逢いたい人に逢える」ということから浄土に興味を持たれたのですね。
その興味関心はとても大切なものです。そこからでないと私たちは始められないですからね。
さて、浄土とは阿弥陀仏という仏様のお覚りの世界です。一切の生きとし生けるものをそこに往き生まれさせて救いたいというのが阿弥陀仏の願いです。逢いたい人に逢えるというのはこの願いからくるものでしょう。
でも浄土はそれだけではないのです。「一切」ですからね。つまり具体的には逢いたくない人にも逢える世界ということです。
そもそも、仏のお覚りは無分別といい、好きとか嫌いとか、良いとか悪いとかそうした二項対立を超えたものです。浄土に往き生まれるからには私たちもそのような分け隔てる在り方を超えさせていただくのです。
さてさて、浄土とは歴史的に実在した世界や科学的に実証される世界ではありません。宗教的事実の世界です。信仰を通して実体的な有無を超えてはたらきかけてくる世界ですね。
そのはたらきはいつでも・どこでも・誰にでも呼びかけています。より具体的には今・ここで・私(あなた)に願いをかけているのです。
この宗教的事実において浄土を観た天親(てんじん)という方がいます。そのお方は浄土を
「広大無辺際(広大にして辺際無し)」
と言い表しました。浄土は広大な世界であり、辺や際(きわ)が無いというのです。つまり「ここまでは浄土でなく、ここからが浄土である」と線を引くような辺や際が無いというのですね。
では辺や際を作るのは誰でしょうか?浄土に生まれる人とそうでない人を区別するのは誰でしょうか?あらゆる区別・差別を作るのは誰でしょうか?
浄土の教えはそうした広い願いと、その願いに照らされるこの私の現実を教えてくれます。
是非とも、その大切な興味関心から学びを進めてみましょう。
浄土については浄土三部経といわれるお経である
・仏説無量寿経
・仏説観無量寿経
・仏説阿弥陀経
のこれらを学ぶと良いでしょう。
お浄土に往くのは南無阿弥陀仏を申す人であり、南無阿弥陀仏を聞く人です。それはそういうことか?学びの中で浄土という宗教的事実に遇うことを念じます。
その時、きっと逢いたい人も逢いたくない人も共に仏様から願われている世界を見出せるのではないでしょうか。
倶会一処
浄土系の教えでは供会一処(くえいっしょ)を説きます。お墓にも良く彫ってありますね。好きな人と浄土で再会できるのです。昔の話で、浄土での再会を誓い合って、別れたという話が私は好きです。必得往生(ひっとくおうじょう)ですから、必ず西方極楽浄土に行けます。そのためには、念仏を唱えなければなりません。それが正定業(しょうじょうごう)だからです。念仏を唱えるだけです。生前の業(ごう)は関係ありません。それで、行き先が決るのは従来の六道輪廻(ろくどうりんね)です。極楽は、『阿弥陀経』『観無量寿経』に詳しいですが、素晴らしい荘厳(しょうごん)の素晴らしい世界とされています。そこでは、阿弥陀様の説法を聞いて、確実に仏になれるとされています。
質問者からのお礼
吉武文法様
お返事ありがとうございます。
逢いたくない人にも逢う世界との事、やはり今生を悔いなく生きる生き様も重要そうですね。そうでないと顔向け出来ませんからね。
お浄土をみた天親という和尚様がいらっしゃるのですね。興味深いです。教えて頂いたお経からもお浄土について調べてみますね。
ありがとうございました。南無阿弥陀仏
井澤隆浩様
わかりやすいご説明ありがとうございます。
六道輪廻とお浄土はまた違うのですね。
お二方からおすすめしていただいたお経をネットで調べてみました、難しいですが、まずは念仏を始めてみようと思います。