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宗教的実存の転換について

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浄土真宗について勉強したり、時折り聴聞したりしています。

浄土真宗の念仏は報恩感謝の念仏であり、往生の因ではなく、信心の定まったところから自ずと発せられるもの、というふうに理解しています。

その点を踏まえて1つお聞きしたいのですが、信心が定まっているという実感はいかにして得られるものなのでしょうか。生き方が定まるというか道が見えるというか、様々な表現があるかと思いますが、そういった宗教的実存の転換というものはどのようにして起こるものなのでしょうか。

ちなみに、本で読んだ話ですが、曹洞宗のとある禅僧の方が、「自分が仏になる道を歩む最中、それが無理だと悟りったところに開けた仏教が浄土教をはじめとする他力の仏教であり、計らいを捨てて坐る禅にも通ずるところがある」とおっしゃっておられました。続けて、「前者から出発せずにいきなり他力を実感することはできないからこそ、計らいを捨てて坐るという実践が要請される」というようなことを述べてらっしゃったんですが、やはり「意識的に」そうした実感を感得することは不可能なのでしょうか。

2020年7月24日 3:44

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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信は仏辺に仰ぐ

こんにちは、初めまして。

お念仏にご縁があられたとのこと、何よりです。
私は、浄土真宗本願寺派の立場から思うところを書きます。

先人の言葉に、以下のようなものがあります。

信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう

信心(阿弥陀様の仰せに順う心)は、ご信心とも言われるように100%阿弥陀様からの賜りものである。必ず救う、間違いなく往生浄土させようと仰せの南無阿彌陀佛そのものにこそ確かさが有るのであって、私の心の中に探すものではない。この故に、「仏辺」に、南無阿彌陀佛に信は仰いでいくものである、というのが前者です。このため、我が宗旨では聴聞せよ、聴聞せよ、ただ聞き信じさせてもらえと勧められるのです。

この言葉から考えると、「信心が定まっているという実感」を特に追求し、確信する必要性はないと思います。勿論、信心歓喜、法を聴く喜びはあります。ただ、歓喜正因ではなく、あくまで信心正因です。

一方、お慈悲は罪悪深重の身を知らされることと不可分である、ということです。

煩悩具足の我が身では決して成仏出来ない我が身であり、その自分を目当てにお慈悲を垂れたもうご本願のありがたさよ、と聞いていく。信心は、ご存知かもしれませんが、機の深信と法の深信の両面を持っています。救われるはずのない我が身と深く信じ、このような私が救われていくと深く信ずるという両面、ということです。

その宗旨が違う禅僧さんの言葉をご本願と併せて理解するのではなく、ご本願を基準としてその禅僧さんの言葉を参考程度に聞いていくという順番のほうが宜しいように思います。

ご参考になれば

2020年7月24日 8:51
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釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
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自力を尽くしてこその他力。

浄土真宗の祖師親鸞聖人の御言葉から
我ら現代人には
他力ということが
何となく知識として先に入っています。

でも親鸞聖人も
比叡山での自力の修行を経て
法然上人の他力にたどり着いたわけです。
我らが初めから自力を尽くさずに
他力を当てにするのは違うと思います。
自力無効を実感しないことには
他力を本当に感じることはないと思います。

2020年7月24日 15:39
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和田隆恩
 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生ま...
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念仏が口から出れば信心がある

浄土宗のお坊さんで江戸時代にカリスマ的な人気があった徳本上人は、
「口先で南無阿弥陀仏と言えばよい 心なくして申せるものか」
と言われたそうです。
信心が全くないなら、口から南無阿弥陀仏がでるはずがない。
疑いながらでも、口から南無阿弥陀仏が出るなら、それは信心があるからではないでしょうか。
だから、南無阿弥陀仏の念仏が口から出るという「物理的な証拠」を喜びませんか?

2020年7月24日 14:23
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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

和田隆恩様、願誉浄史様、釋悠水様
ご丁寧に返答いただきありがとうございました。

その後も自分なりに考えてみましたが、自分に対する悪人の自覚やそれを包括する弥陀のありようのいずれも実感しないままに仏教と関わり続けるのは、どうしても受け入れられないという気持ちになってしまいます。それらの実感がないままに、ただ念仏を口にしたりしても、自分はそういう役を演じてるだけじゃないのか、有り難がってるだけじゃないのかという気がして、自分が嫌になってしまうというか。

その点、(比較するようで大変恐縮ですが)和田隆恩様の自力無功が実感されるまで突き詰めてみるという考え方は得心がいきました。

お三方とも大変有り難い返答をいただき、誠にありがとうございました。

「浄土真宗」問答一覧

阿弥陀如来様は実在しないのですか?

私は阿弥陀如来様が大好きです。 毎日救っていただくことへの感謝として念仏を唱えています。ハスノハでもたくさんの問答を見るのが楽しみです。 ところが、先日、ハスノハで真宗のお坊様が「極楽浄土があると信じていない」人への解答で、「阿弥陀如来様や浄土というのは働きのことで、実際亡くなった人が浄土という場所で生まれ変わるということではないのだろう。だから浄土とはこの世での働きのことで、死後の世界としてあるわけではないと思う」「仏様というおとぎ話を使って今生での安寧を得るのだ。だから阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」 という旨のことを仰っているのを拝見しました。一人ではなく何人かのお坊様がそういったことを仰っているのを見ました。 誤解していただきたくないのですが私はハスノハのお坊様方のことを尊敬しております。ですが少なからずショックでした。私は今生で死んだら、阿弥陀さまに迎えに来ていただいて極楽浄土に生まれ、そこで仏となる修行をできることを嬉しく思っていたからです。 また、何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支えです。 法話を聞いたりしていると、「阿弥陀如来様という素晴らしい仏様がいらっしゃる(=阿弥陀如来は実在する)」「死んだら極楽浄土にいき仏になる(=極楽浄土は実在する)」とお経も親鸞様もハッキリ仰っているように思います。 阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗ではないのですか? 私が、元はキリスト教を学んでいたこともあって、阿弥陀如来様や極楽浄土への解釈が違うのではないかと不安です。 (極楽浄土と天国は、極楽浄土は阿弥陀如来様の国(他の仏様もそれぞれ浄土をもっていらっしゃる)。という違いだと理解しています) 私はこれからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良いですか?

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浄土真宗につきまして,質問させていただきます。 先日,母が他界し,仏壇を引き取りました。 仏壇の御本尊は,黄色い光が6本出ている掛け軸から,大谷派であることがわかりますが,「ウチは代々大谷派」,「ウチは代々東本願寺派」という,厳密な別があるのでしょうか? と申しますのは,墓石の横に彫られているものを見ますと,祖母の法名は「釋尼〇〇」,母の法名は「釋〇〇」で,前者は東本願寺派,後者は大谷派の法名のようで,なんとも気になるところです。 もう一つお聞きしたいのですが,仏壇に,「〇〇家先祖代々之霊位」という位牌が入っています。うらには,「昭和60年9月 施主 〇〇〇」と書かれています。〇〇〇は,すでに亡くなった私の父の名前です。 調べてみますと,浄土真宗は,お位牌は必要がないと書かれている記事がありました。仏壇が小さく,問題がなければお焚き上げをしたいのですが,いかがなものでしょう。 まとめますと, ・代々の宗派として,大谷派,東本願寺派は,厳密に区別しなければならないのか。 ・父がつくった位牌をお焚き上げしても問題はないか。 ということです。 どうぞ宜しくお願い申し上げます。

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