宗教的実存の転換について
浄土真宗について勉強したり、時折り聴聞したりしています。
浄土真宗の念仏は報恩感謝の念仏であり、往生の因ではなく、信心の定まったところから自ずと発せられるもの、というふうに理解しています。
その点を踏まえて1つお聞きしたいのですが、信心が定まっているという実感はいかにして得られるものなのでしょうか。生き方が定まるというか道が見えるというか、様々な表現があるかと思いますが、そういった宗教的実存の転換というものはどのようにして起こるものなのでしょうか。
ちなみに、本で読んだ話ですが、曹洞宗のとある禅僧の方が、「自分が仏になる道を歩む最中、それが無理だと悟りったところに開けた仏教が浄土教をはじめとする他力の仏教であり、計らいを捨てて坐る禅にも通ずるところがある」とおっしゃっておられました。続けて、「前者から出発せずにいきなり他力を実感することはできないからこそ、計らいを捨てて坐るという実践が要請される」というようなことを述べてらっしゃったんですが、やはり「意識的に」そうした実感を感得することは不可能なのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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信は仏辺に仰ぐ
こんにちは、初めまして。
お念仏にご縁があられたとのこと、何よりです。
私は、浄土真宗本願寺派の立場から思うところを書きます。
先人の言葉に、以下のようなものがあります。
信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう
信心(阿弥陀様の仰せに順う心)は、ご信心とも言われるように100%阿弥陀様からの賜りものである。必ず救う、間違いなく往生浄土させようと仰せの南無阿彌陀佛そのものにこそ確かさが有るのであって、私の心の中に探すものではない。この故に、「仏辺」に、南無阿彌陀佛に信は仰いでいくものである、というのが前者です。このため、我が宗旨では聴聞せよ、聴聞せよ、ただ聞き信じさせてもらえと勧められるのです。
この言葉から考えると、「信心が定まっているという実感」を特に追求し、確信する必要性はないと思います。勿論、信心歓喜、法を聴く喜びはあります。ただ、歓喜正因ではなく、あくまで信心正因です。
一方、お慈悲は罪悪深重の身を知らされることと不可分である、ということです。
煩悩具足の我が身では決して成仏出来ない我が身であり、その自分を目当てにお慈悲を垂れたもうご本願のありがたさよ、と聞いていく。信心は、ご存知かもしれませんが、機の深信と法の深信の両面を持っています。救われるはずのない我が身と深く信じ、このような私が救われていくと深く信ずるという両面、ということです。
その宗旨が違う禅僧さんの言葉をご本願と併せて理解するのではなく、ご本願を基準としてその禅僧さんの言葉を参考程度に聞いていくという順番のほうが宜しいように思います。
ご参考になれば
自力を尽くしてこその他力。
浄土真宗の祖師親鸞聖人の御言葉から
我ら現代人には
他力ということが
何となく知識として先に入っています。
でも親鸞聖人も
比叡山での自力の修行を経て
法然上人の他力にたどり着いたわけです。
我らが初めから自力を尽くさずに
他力を当てにするのは違うと思います。
自力無効を実感しないことには
他力を本当に感じることはないと思います。
念仏が口から出れば信心がある
浄土宗のお坊さんで江戸時代にカリスマ的な人気があった徳本上人は、
「口先で南無阿弥陀仏と言えばよい 心なくして申せるものか」
と言われたそうです。
信心が全くないなら、口から南無阿弥陀仏がでるはずがない。
疑いながらでも、口から南無阿弥陀仏が出るなら、それは信心があるからではないでしょうか。
だから、南無阿弥陀仏の念仏が口から出るという「物理的な証拠」を喜びませんか?
質問者からのお礼
和田隆恩様、願誉浄史様、釋悠水様
ご丁寧に返答いただきありがとうございました。
その後も自分なりに考えてみましたが、自分に対する悪人の自覚やそれを包括する弥陀のありようのいずれも実感しないままに仏教と関わり続けるのは、どうしても受け入れられないという気持ちになってしまいます。それらの実感がないままに、ただ念仏を口にしたりしても、自分はそういう役を演じてるだけじゃないのか、有り難がってるだけじゃないのかという気がして、自分が嫌になってしまうというか。
その点、(比較するようで大変恐縮ですが)和田隆恩様の自力無功が実感されるまで突き詰めてみるという考え方は得心がいきました。
お三方とも大変有り難い返答をいただき、誠にありがとうございました。