偽物の自分をつくってしまっている気がします。
私の良いところは、気が使えるとろこだと思っています。
例えば困っているお年寄りに手を貸してあげたり、人に対してではありませんがスーパーに行ってお豆腐が置いてあるところに違う商品が置いてあれば、その商品を元の場所に置いておいたりしてます。ありがた迷惑の場合もあるかもしれません。
私がなぜこうゆうことをするかというと、見て見ぬ振りなどする人になりたくない。視野を広げた時に運がついてくるかなと思うからです。
ですが最近、ただいい人ぶっているだけなのではないかと思い始めました。
私がしているこの行動は偽物なのか本物なのかわかりません。
こういった時自分に問いかけるものの、答えなど出てきません。
自分をつくったりはしたくないんです。
これからのヒントがほしいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
良いと思うことは迷わずやろう
まかろにさん
その気持ちよく分かります。わざとらしい、偽善者になりたくないのですよね^_^。
なぜそのように思うのかというと、人の目を気にしすぎているからです。
気が使えるというのも、一見いいようで、苦しみを生む原因にもなります。自分の考えを中心に周りを見るから、すぐに良い悪い、白黒つけたり、こうあるべき、こうしたほうが良いに決まっていると、決めつけたりしやすくなります。
行動を起こす時は、人の評価を気にせず、行動できれば一番良いわけです。
自分がされたら嬉しいだろう、助かるだろうと思うことを当たり前にただやる。それができれば良いのです。
人目も気にせず、ただやる。それが大切なことでしょう。
まかろにさんの行動は間違えなく素晴らしいことです。自信を持ってどんどんやって行きましょう。
「自利利他」
まかろに様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「偽」は、「人」の「為」と書きますよね。
人の為と書いて「偽」というのは、なんか解せないですよね。。
まあ、「情けは人の為ならず」と申します。つまり、それは、いずれ回り回って「自分のため」になるということであります。
全然、気にすることはありません。偽善と思っていても、情けを掛けて、その人の為になる善いことは、どんどんしましょう。それもいずれ回り回って「自分のため」になるからという理由でも、初めは全く以て良いのではないかと存じます。
あとは、偽も、作るも、貴女様の事実の行動は、他の誰の行動でもなく、貴女様の事実の行動として本物に変わりはありません。
ですので、偽物であろうが本物であろうが、その行動には、自分の責任が伴うことになります。
善い行いも悪い行いもです。ならば、できるだけ善い行いに励む方が、もちろん得策です。
仏教では、「自利利他」という言葉もございますが、他を利する功徳、福徳の行いが、自分が悟りへと向かう利のためにもなる、ということと同じでございます。
簡単に申せば、人を幸せにすることが、自分も幸せにすることである、といった感じでございます。
拙生だって、100%、貴女様のお役に立てることを思ってこの回答を書いているわけではありません。この回答が何か役に立つ善い行いとなれば、その功徳を皆様へと回向する中には、当然に自分も含まれております。
あるいは、拙生自身の仏道修行、仏教修習の精進のためということもございます。
あまり深く考えて萎縮されずに、自分の為の他の人の為で良いのではないかと存じます。
川口英俊 合掌
偽物、仮面、ペルソナ、アイマス
無言の横顔で あなたも私も きっと 疵ゆえのペルソナ わかっていたよ
幸せのために 愛のためだからと 残酷な戦いを繰り返して
それでも涙がとまらない 願う心は一緒 それぞれの未来が呼ぶんだ
さて、偽物や偽善と聞くと仮面、ペルソナを連想して更に上記の歌詞を連想します、翔玄です。
上記はアイドルマスター XENOGLOSSIAのOP曲の歌詞です、どうでもいいですかね。
では本題に。
自分を作っていない人なんて居ません。
裏表が全くない人なんざ居ません、すべての人に対して人生を通して一貫した1つの顔を貫いている人なんて居ません。
それこそ親に見せる顔、友人に見せる顔、知らない人に見せる顔、顔だけではなく電話口で喋るときの声が高くなる問題
自分自身というものは仮面の上に仮面を重ねてそれを着けたり外したり、そういうものです
つまりそれこそが一般的な状態であり、別におかしいことは何もありません。
ただ、それを全て含んでの自分なのです。自分を時と場合、相手によって作り変えていたとしても偽物ということではございません。
それは行動に当てはめても同じことで、貴方が普段しているスーパーでのことや席を譲ること、それは全て貴方自身がそうしたいからしている、たとえそこに一瞬でもいい人に見られたいから、という想いがあったとしても関係はありません。
貴方が今、その行いをしている、それこそは確固たる真実です、現実です。
なのでそれに関して貴方自身が自分の行為は偽善だとかどうだとか考えなくてもいいんです、心がそうしたいと想うならばすればいいんです、関係ありません。
よく言うでしょう、「やらない善よりやる偽善」
何を偽善、とするかにもよるでしょうが貴方の行いは偽善ではございません、善です。
もっとやりなさい、どんどんやりなさい。
自分をつくることって悪いことではございませんよ、自分を作るということはそれだけ適応する、ということですからあまりそこを毛嫌いなされないようにだけ。
自然に動いてしまうものです
永平寺の道元禅師は「窮亀を見、病雀を見しとき、彼が報謝を求めず、ただひとえに利行にもよおさるるなり」という言葉を残しています。
「困っている亀や病気の雀を見たとき、感謝やお礼を望むこともなく、ごくごく自然に、「助けなければ」という気持ちがもよおすものだ」という事を言っています。
注:この「困っている亀」や「病気の雀」というのは中国に伝わる昔話で、どちらも困っている亀や病気のスズメを助けたところ、助けた人が幸福になった。というテの話です。日本にも似たような昔話ありますよね?
この「もよおす」というのがポイントですね。「もよおす」という言葉は、よくおしっこの時に使いますよね。「おしっこをしないと体に悪いから」なんて理由でおしっこをする人はいないですよね。ただただおしっこがしたいだけです。
それとおなじように、困っている者を見ると、ちょうどおしっこをしたくなるように、むらむらと「助けたい」という気持ちになってしまうものだ、と言っているのです。
まかろにさんもそうじゃないのかなぁ?何か自然に動いているんじゃないのかなぁ?なぜ、って理由を後で自分で作って、「偽善では?」と苦しんでいるんじゃないのかなぁ?
よい行いというのはやる方も見ている方も気持ちがいいものです。あまり深く考えずに爽やかにやりましょう。