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2人きりで会う必要はあるのでしょうか?

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友人から紹介された男性がいます。
少しややこしいのですが、私の友達(以下A)の友達(以下B)の後輩(以下C)紹介されたのはCです。

BとCは先輩後輩の関係でとても仲がいいそうで、Bが私とCが仲良くなれるように力になるよと言ってくれています。

ですが、気になることが一つあります。
一昨日、Bさんから今度ご飯行かない?と誘われました。
Cを交えてという意味なのかは確認していないのでわからないです。

忙しいのですぐには時間作れないです、急にどうしたんですか?と聞いたところ、◯◯ちゃんが忙しいのは承知してるから大丈夫だよ。◯◯ちゃんとラインしてたらちゃんと会って話してみたいなって気になったから。と言われました。

私が人見知りということもあっていきなりCも交えてご飯行こうと言ったら私が動揺すると思ったから、まずは俺が会ってワンクッションおいたほうがいいという考えなのか、当日にサプライズ?的な感じでCを連れてこようと考えているのかはわかりませんが、Bさんが何を考えているのかがわからないです。

もちろん深い意味はないと思いますが、Bさんと2人で会う必要性がわからず困惑しています。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

Bさんと2人で会う必要性は無いですよね。

Cさんを紹介されるのですから、
そこは筋を通して、
他の方と単独では会わないようにすべきだと思います。

仲介してくれるBさんですから気を使いますが、
納得出来ないことは、
すべきではありません。

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 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

必要ないと思うなら不必要

必要性がないと思うなら、会う必要はないですよね。

Bさんもどういうつもりなのか、まぁ同じ男として何パターンか思い浮かびはしますが…

人見知りということですが、そんなのは程度の差はあっても皆同じですよ(^_^)
わざわざ「私は人見知りです」という暗示を、自分にかけないほうがいいですよ!

そして、わからない気になることは聞くこと、断りたいなと思ったらちゃんと断ること、自分がどうしたいのかをちゃんと把握して、流れに流されないこと。

心がけると、苦労が減りますよ(^_-)

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困っている人や悩んでいる人にとって、仏さまの教えが少しでも良薬となれることができればと思います。 そしてこの縁によって仏教の良さを知って頂けるととても嬉しいです。

好きかどうか

その人が恋愛対象になる人であるなら会えばいいでしょう。
あなたの違和感は確かなものです。
自分の本心に忠実に上手に断りゃいいでしょう。
イイ人ぶると相手に期待させますから。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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