父の死と死後の世界について
最愛の父が他界してから、死後の世界について考えています。
父は愛妻家かつ子煩悩で、死の3日前まで母と私に「大好きだよ」と言っていました。
大食漢で行動的な人でしたが、病のせいで食事も運動もままならない中、愚痴ひとつ言わずいつも笑っているような人でした。
死後の世界があるのなら、痛みからも苦しみからも解放されて、好きなものをたくさん食べて、好きなことをたくさんしているのだと思えます。
死後の世界がないのなら、大好きだった父は何処にもいないのなら、二度と会えないのなら、私も死にたいと考えています。
大学一年生の頃、仏教の講義が必修科目でした。
18歳だった私は宗教や死後の世界は生きてる人間のためにあるもので、死んだら無になると考えていました。
今になって死後の世界があって欲しいと強く思うのですが、長年否定していたものを肯定するのは都合の良い話に思え、抵抗があります。
祖父が亡くなった時は季節外れの蝶が部屋に舞い込んできたり、替えたばかりの蛍光灯が明滅したりと不思議な出来事があり、もしかしたら…と思える時もありました。
ですが「ずっと側にいるよ」と言った父の存在を感じることはなく、消えて何も無くなったように思えてしまい、胸が苦しくなります。
長文かつ乱文で申し訳ありません。
どのような心持ちで過ごせばいいのか、ご教示願います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
有無を超えて出遇う
ご相談拝読しました。最愛のお父様のご命終に謹んでお悔やみ申し上げます。
死後の世界の有無については残念ながら生きている私たちには確信をもって確かめることはできません。仏教では有るとするのも無いとするのもどちらも偏ったものの見方であるとして退けられます。つまり、「有るものでも無いものでもないものとして有り得る」というややこしい言い方にはなりますが、そういうことになります。
ですからお父様はもうどこにもいないとか二度と会えないということにはなりません。自分も死んでからではなく、今「遇う」ことができます。
あなたは「自分の都合」を問題にしておられますが、それは仏教的にもとても大事な視点です。大切な人がずっと自分の思う様な形で存在して欲しいというのもやはり自分の都合であり執着です。亡き人はそういう「自分の都合」から解放されたからこそ形にとらわれず私たちにはたらきかける存在として出遇ってくださるのではないでしょうか。
「あう」ことについて「遇」という漢字を使いましたが、これは「会」とは違い、「自分の思いを超えて、たまたまはからずも遇う」ということです。生前同様に「約束した形で会う」ことはできずとも、お父様の心やお父様からの促しに「遇う」ことはこれから先もずっと続く事と思います。
それは今あなたがおかかえの「胸の苦しさ」だってその一つでしょう。その苦しさはお父様の存在と無関係にあるものではありません。共に過ごしたお父様の存在が、そしてそのお父様が旅立った事実が、あなたにさまざまな促しとなってはたらきかけるのです。
それは寂しさ、苦しさ、切なさ、あたたかさ、疑問、不安、安心…様々な形となって感じられるのでしょう。
生きている人は死ぬまで「自分の都合」から離れられません。亡き人の存在は私たちにそのことを気づかせてくれます。色んなものにとらわれて苦しむ私たちに、そういうものから解放された存在が「あなたは今何に苦しんでいる?」「自分の姿はどうなっている?」と問いかけてくださります。
それは亡き人が仏様としてはたらいてくださるということです。
仏様としての亡き人に出遇い直せたならば、そこに有無を超える道が感じられるのではないでしょうか。
自分も必ず死ぬのですから、ただ無になるだけの生では虚しいです。亡き人は「そうではないぞ」と気づかせてくださるのでしょう。
お父様の愛情を感じると
あおい 様 相談ありがとうございます。
お父様のご冥福をお祈りいたします。合掌礼拝
あの世が有るとか無いとかと、唯物論的に考えても答えは出ません。
否定も肯定もしなくていいと思います。
あなたがこれまで、お父様と過ごしてきたことを振り返った時
あなたが受けた、お父様の優しさや温もりや愛情を感じて
あなたの心に優しさで溢れるようになったとき
お父様のつながりを実感できるでしょう。
お父様の存在を大きく感じ、「ずっと側にいるよ」が解るようになるでしょう。
今は、お父様がお亡くなりにならて間がなく、哀しさや寂しさなどで、繋がりが感じにくいかもしれませんが、「痛みからも苦しみからも解放されて」とあなたが祈り続ければ、徐々に心の痛みから解放されて、お父様が近くにいるようなことを観じてくるでしょう。
お父様の微笑みが、あなたを支えることとなるでしょう。
仏様の傍に居て、あおい様のご家族を見守ってくれるでしょう。
私はそう思います。
合掌礼拝
死後
あおいさま
死後、死後の世界、あるいは前世、過去世の世界について考えることは、今のあり方を照らし出すところにもなります。
仏教では因縁果の道理を第一に致します。
因縁無くして結果無しであります。仏教の要諦である四諦も因縁果を基本として成り立っているものとなります。
つまり、過去の因縁が今の結果であり、今の因縁が未来の結果になるということであります。
ですから、今の因縁を善い結果へと向けて調えてあげれば、確実に善い未来の結果に繋げられることになるのであります。特に仏道という善き因縁に取り組めば、結果もそれに見合ったものになっていくということが言えるのであります。
抵抗があるかもしれませんが、死後の赴きはあると思って頂ければと存じます。
その赴きをより善くに成していって頂くためのお手伝いが供養というものにもなります。
お父様により善き赴きがありますようにと供養をして頂けましたら有り難いところとなります。
追善供養につきましては、先ほどに下記の質問に私も回答させて頂いておりますので、参考にして下さい。
https://hasunoha.jp/questions/48261
また、死後のありようについてより詳しくお知りになりたいとなりましたら、下記の書物を参考になされて下さい。
「チベットの生と死の書」 (講談社)・ソギャルリンポチェ
川口英俊 合掌