浄土真宗の「悪人正機」の意味について
初めまして。浄土真宗の思想についての質問です。
浄土真宗に「悪人正機」という思想がありますが、これはどんな悪人であっても阿弥陀仏様を信じれば浄土に往生することが出来るという意味なのでしょうか?
もしそうなのだとしたら、数百万人を粛清した独裁者や数千億円を騙し取った詐欺師も阿弥陀仏様を信じてさえいれば浄土に往生することが出来るということになりますが、何だか不公平な気がしてなりません。
初歩的な質問ですいません。以前からずっと気になっていたので、この場をお借りして質問させていただきました。よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「悪」とは何か
こんにちは、初めまして。
浄土真宗の教えに関するご質問、ありがとうございます。
ご質問の件は、時々尋ねられることがあります。
ここで言う「悪人」の「悪」とは何であるか、何を基準としているか、を知る必要があります。あなたは、「独裁者」「詐欺師」を例に挙げていますが、これは人道上であったり、法的な意味での「悪」ですね。
ここではやはり仏教の意味での「悪」であることを認識しておく必要があります。簡単に言うと、仏様(悟り)に近づく方向性の心、行いを善とし、その反対の方向性を「悪」といいます。仏様の教えに背くような心、行い全般です。例えば、仏様の仰ること(お経)は正しくない、極楽などない等と思ったり、発言したりすることです。広くは、嘘をつこうと思うこと、妬んだりすること等々沢山有ります。
ここで大切なことは、「悪人」という自覚を仏様によって持たせて頂いた(自分で自覚をもつ、のではない)者を「正機」、つまり阿弥陀様は救いの目当てにしている、ということです。仏様の視線の中にいる自分であるという、その事実に気が付かせて頂いた(自分で気がつく、のではない)衆生は、極楽に往生することも、成仏することにも程遠い私であるという絶望と、その私を目当てとして下さることに喜びと感謝をもつ、というのが浄土真宗の救いの構造です。
腰を据えて教えを聞く(聴聞)
↓
「悪人」の自覚(絶望)と、「正機」であることを知る(感謝と喜び)
↓
極楽に往生し、成仏することが現世で確定する
大雑把にはこういう筋道を踏む必要があります。
その意味では、聴聞を重ねた「独裁者」「詐欺師」であっても救われるということにはなります。ただ他(仏様を含めて)の意見を排除して自分を絶対だと思う「独裁者」や、自分のためだったら人を騙しても良いという我利我利、煩悩全開の「詐欺師」が聴聞の縁に会うかどうかは別問題ですが。
あとは、人の往生を問題にするより、自分の往生を問題にすべきということです。他者の幸せ、行く末はあなたが問える問題ではありません。自分の幸せ、行く末を問えるのみです。
仏様を基準にし、仏様の眼の中で生きることは素晴らしいですよ。
以上、簡単に説明しました。
藤本晃『浄土真宗は仏教なのか?』(サンガ)
(編集部より。規約により投稿の一部を変更削除しています。)
という本を以前に書きました。浄土真宗独特の世界を仏教共通の視点から再解釈したもので、宗派ガチガチの人々から、そのやり方に文句を言われました。内容に関する議論は誰も吹っ掛けてくれません。
最近ではスマナサーラ長老が『ブッダに学ぶほんとうの禅語』(アルタープレス)を出版し、曹洞宗から、内容の解釈について直接要望を受けています。(雑誌『月刊住職』のたぶん今年の十月号)こちらは、理性的に、「祖師たちの言葉を各自が努力して理解しようと頑張るのは良いことだ」と返信し、曹洞宗もそれでアプローチの違いがあることに気づいて、収まっています。
さて、「悪人正機」について、あなたが考えるように、一般的に思われてもいます。
宗派の公式見解もあるでしょうけど、あまり知られていないようです。私もよく知りません。
私の見解を申しますと、「悪人正機」の悪人は、自分が悪人(=凡夫)だと自覚している人だと思います。殺しても盗んでも騙しても自分だけ儲かればいいという考えの人は、自分の悪を自覚していません。来世も、今世でも、この後どうなるかわかりません。
悪いことをした後で、あるいは、どんな悪行為さえもしていなくても、心の中の悪、自分の心の醜さに気づくと、それが、自分が向上する第一歩になると思います。仏様から見ると、自分の(悟りの)方向に向かう正機(正しい機根の人)ということになるでしょう。
私は以上のように解釈しています。
悟るまでは、心の中に醜さがどこかにあります。それを自覚しながら、自分のできる範囲で努力すべきだと思います。そういう人は、悟り(仏さま)に向かってまっすぐ歩いている悪人正機の人だと思います。
まあ、私に言わせれば、鎌倉時代の特殊な言い方のせいで、現代では誤解を招くようなら、言い方自体を変えた方が良いとは思いますけど。
輪廻にある衆生は、ある意味で全て「悪人」
つくしさま
浄土真宗の教義的な「悪人正機」の解釈とは異なるかもしれませんが、ご参考までに。。
人間のみならず、輪廻にある衆生の99.99999999999999999999%以上は、過去世からの悪業(悪いカルマ)が勝ってしまっており、迷い苦しみの中におります。
悪業が勝ってしまっているということは、まあ、「悪人」と言ってしまってもいいかもしれません。
いずれにしても、無明(むみょう)という真理を分かっていない無知なることにより、悪業を犯してしまっています。
専門用語的には、倶生の諦執、有染汚無明(煩悩障)、不染汚無明(所知障)とも申します。また、無明による知を迷乱知・顛倒知などとも申します。
いずれにしても、真理を知れていないため、間違った認識のもとで、間違った行動を起こしてしまっているという状態であります。
その間違った認識、間違った行動にある衆生たちを仏教により、より善い方向へと導き、治していきましょう、ということになります。
ですから、阿弥陀如来さまが救済とする対象は、もちろん一切衆生であり、一切衆生は、上記の意味で「悪人」でありますから、全ての者たちがその救いの対象となるのであります。
さて、問題は、往生へ向けた「信心決定」(しんじんけつじょう)であります。
これは、阿弥陀如来さまとのご仏縁の強い結びつきとして非常に重要なものとなります。
この「信心決定」における「信」が常にあれこれと問われるところになりますが、世間で使われる「信じる」という意味合いとは決定的に違うものとなります。
まあ、非常に難しいところですので、浄土真宗の教義的な解釈等も含めて、是非、考究なさられて頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
丁寧で分かりやすい解答をありがとうございます。
ここで得た知見を今後の人生の糧に出来る様に、
日々精進いたします。 合掌