お坊さんの戒律に関する質問です
僕は来年僧侶になる予定の高校生です。
お坊さんの戒律の現状に関して皆様の意見を教えてください。
明治以降、国の政策によってお坊さんは肉食、世帯、飲酒、その他諸々の戒律を守らなくてもよいことになりました。
そして国家の規定による持戒は戦後の信仰の自由の徹底化によって可能性はほぼ無くなりその状態は今現在も続いています。
以前こちらでも活躍されている大慈さんの配信で僧侶の肉食、世帯に関する質問をしたのですがその際に
・肉食は栄養の問題で必要だし仏教の教義としても問題ない
・世帯は無条件の良い事では無いが寺を継ぐ後継者を育てていくためにも必要
・これらの問題は全てを解決できる答えが無いから考え続けることが大事
という様な答えを頂きました。
僕も大慈さんのお考えに感銘を受け、すぐに結論を出さすこの問題に向き合う事にしました。
しかしすぐに結論を出さないという事は問題に向き合う事に消極的になるという事では無く様々な意見、主張を聞き考え続けることだと思います。
そこでここにいらっしゃる僧侶の方々の肉食、世帯に関する意見をお聞かせください。
また、大慈さんは戒律の問題を一括りにはせず肉食と世帯を別の理由でもって語って下さいました。
確かに一つ一つ事情は異なっているので僕も個別に考えようと思います。
そこで肉食、世帯に加えて飲酒や金銭に関する問題もお伺いします。
今現在の僕の意見としては、しょうがない理由のある肉食や世帯と違い嗜好品としてのお酒やお寺を支えるため、生活するため、将来のための貯えを超えた過度な儲けと散財はある程度宗派、教団で規制してもいいんじゃないかと思うのですが皆様はどうお考えですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
戒律
たは他力のたさま
あくまでも原則としての話となりますが、僧侶が本来守るべき戒を正式に受けるための戒壇は現在日本仏教には無い(まあ、色々議論はありますが)と言えるため、各宗派においての規定として満たした僧籍というカタチにおいての僧侶はいたとしても、正式な僧侶はいないと言えるのが現状であります。
但し、テーラワーダ仏教やチベット仏教において正式な戒を受けて継続して順守されておられる日本人僧侶はおります。
とにかく、まずは、正式な戒壇を各宗派で調えること、そして、その内容は宗派共通(浄土真宗さん以外)とすることが必要となりますが、それはかなり難しいのが現実であるかとは存じます。
方法としては、テーラワーダ仏教かチベット仏教かで受戒をするか、または、自己規制として、一応は僧籍者ながら在家(五戒)の戒律だけは最低限守ることにするか、あるいは、僧俗共通の大乗菩薩戒や三昧耶戒だけは守ることにするかなどになるかと思います。
また、肉食については、見解が分かれるところがあり、容認、寛容になっている面がありますが、常に感謝・供養の心は忘れないようにして参りたいものでございます。
妻帯はやはりNGでありますでしょう(浄土真宗さん以外)。ちなみに拙生は妻帯しておりますから完全アウトです(もちろん、それ以外もかなりの部分でアウトです)。
川口英俊 合掌
戒律は、風土や生活文化によって異なることも有りえると思います
釈尊の説かれた教えは民族や文化を超えた普遍性を持っていると思います。但し、インドで編纂された経典の内容のすべてが、今の時代の日本に適合する訳ではありません。釈尊在世の時代のインドの政治・経済・文化を踏まえて理解する必要があります。今の日本仏教では実際に行じている例はあまりないでしょうが、比丘の二百五十戒、比丘尼の三百四十八戒も時代性と風土と文化を考慮して理解すべきだと思います。
戒については、私は誓願と受け留めています。戒(sila)は「習慣づける」「努力目標」という意味ですから、私は「嘘をつかない」「盗まない」と誓願し少しでも順守実践に努めることが仏道であると思っております。
肉食は必ずしも「不殺生戒」に反しないと思います。出典はよく覚えていませんが、「貨幣経済が発達する前の時代の托鉢は食料と布を布施してもらうのが一般的であり、肉や魚を布施してもらうことも当然あった。」旨の文章を読んだか、講義を聞いたかした記憶があります。大学に行かれたら教授に詳しく聞いてみて下さい。
お酒に関しては、生活文化の一つとして受け留めた方が良いと思います。昔、秋月 龍珉老師がエッセイで「暑いインドと異なり、寒い気候の中国や日本では暖を取る手段として飲酒が必要とされたかもしれない。郷に在っては郷に従えでは無いが、フランスならワインを飲みながらも薬石が常識になるかもしれない。」という趣旨のことを書いていました。理論武装としてはちょっと弱いけど、そういう実情の中で現在の日本の寺院が存在していると思います。
基本的には、個々の寺院は宗教法人として独立しており、個々に護持運営されており、収支の経理しております。あなたの「将来のための貯えを超えた過度な儲けと散財はある程度宗派、教団で規制してもいいんじゃないかと思う」という考えは妙味深いですが、現実的には無理でしょう。原始共産制的な富の再分配を図るような考えでしょうが、総論としてそこそこ賛同を得られても、実際の富の再分配で軋轢が生じるでしょう。実行は難しいと思います。
戒律の意味は項目を守ることではなく
心が汚れないようにすることです。一瞬たりとも。悟るまでは、体や言葉で出さなくても、心の中でどうしても欲や怒りがサッと湧くので、そのたびになるべく早く気づいて欲や怒りを止め、懺悔します。
上座部の伝統では、釈尊が悟って比丘サンガを指導し始めてから最初の二十年はそれだけで十分でした。二十年後から、女犯をはじめ体や言葉の問題が出てきたので、項目としてのいわゆる戒律を定め、罰則も定めるようになりました。
今や、出家しても、少なくとも上座部以外は正式な比丘サンガではありません。それでも、東南アジアの瞑想センターでの「沙弥」のような生活や禅宗の「清規」をはじめ、初期仏教に残っている戒律を参考にして独自に戒律を定めて頑張って修行する人は多いです。時に悟ったと見られるほどの人が出るのは、項目を守ることもさることながら、心が汚れないように自分で気を付けて修行したからと言えるでしょう。
戒律や比丘サンガの歴史については拙著『部派分裂の真実』(サンガ)を、戒律の意義については、スマナサーラ長老のたくさんの書籍やYouTubeでの説法を参照してください。
質問者からのお礼
みなさま、貴重なご意見をありがとうございます。
様々なご意見をお聞きして自分で考えてからお礼のコメントを書こうと思っていたので少々時間がかかってしまい申し訳ありません。
興味深いのは答えてくださったみなさま全員の戒律観が思っていたより柔軟だった事です。
項目を守ることではなく本質的には心が汚れないようにすることだとか、自己規制としての在家戒律を守ることからすればいいんじゃないかとか、地域に応じて状況が変わってくるとか、今実際に僧侶であり、戒律というものと向き合っている方々は仏教をかじった僕なんかよりも戒律が紋切り型では上手くいかないという事をご存じなのかあと思いました。
それでも僕はやっぱり日本の戒律は足りていないように感じますが、吉田さんに諭していただいたことを忘れず、理想論に傾きすぎないようにしようと思います。
そして川口さんに教えていただいた通りまずは在家戒律から初めて藤本さんのお言葉通り心が汚れないように努めたいと思います。