誰かに必要とされたい
今日初めてこのサイトに巡り合いました。
私の悩みを聞いていただけませんでしょうか。
私は元より「誰かに必要とされたい」という思いが強くあります。
でも、それを否定・拒否されると、極度の絶望感に襲われ、消えてなくなりたいと思うことが多々あります。
日常のたわいのないことにも、です。
例えば、夫に「今日雨降ってるから駅まで迎えに行くよ」と言って断られた時や、同僚に「今日飲みに行こうよ」と言って断られた時など、どんな些細なことでも、自分からの誘いや提案が断られてしまうと、「断られる」=「自分は必要とされていない」という気持ちになります。
誰かに呼び出されはしないかと、寝る時もスマホを握って寝るほどで、メールやSNSが気になって仕方ありません。
かと言って、いざ必要とされた時、本当にその人に役に立てているのかは分かりません。また、オン・オフ関わらずベッタリ・ベタベタな深い付き合いはしたくない(できない)性格です。
面倒くさい人間です。
俗にいう「かまってちゃん」で、精神的に幼いままなのだと思います。
こんな私の悩みに、救いの一言をご教示くださいませ。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
かまってちゃんは人との輪を作る
みんとさん初めまして、一妙寺の赤澤と申します。
誰かに必要とされたい・・・とても大切な気持ちですよ。よくぞご提唱くださいました。精神的に幼いなど言わないでください。
なぜなら人間は「心を開いて人との交流をする」ことが、生きてく上でとても大切なんです。人とのお付き合いをしないと誰でも元気がなくなります。
ところが今の日本社会はどんどん孤立化しています、それも仕方なく孤立化しているのではなく、悪いことに自主的にみんなが孤立化しています。個人情報保護法案なんていうのはその最たるものです。
今の私たちに欠けつつある「みんなで助け合って生きるんだ」という思い、みんとさんの「かまってちゃん精神」は人との輪を作る大切な要素です。とても立派だと私は思います。
ただ呼吸をしているだけで、自分は存在価値がある。私はそう思っています。それくらい緩く自分を認めてください。
何もしないをする 居てくれるだけでイイこともある
お寺に「〇〇のご入り用はありませんでしょうか(^<^)」という営業TELが入るとき「ありがとうございます。必要な時にはこちらからご連絡させていただきますので結構です。」と言ってお断り申し上げています丹下です。
あなたは単に甘えん坊とかそういうものではありません。
あなたが求めているのは「承認」です。
承認欲求を満たすことです。
ご主人にストレートに甘えられることをお勧めします。
頑張ったことを、ホメて欲しい、認めて欲しい、評価してほしい。
わたしはそれをしてもらわないとダメであることを表明されることをお勧めします。
その理由はきっと親御さんからの愛され方にもあったのではないかと思います。
そういう経緯を振り返ってそのぽっかり感をいつも埋めようとしている自分の原因を突き止めると良いでしょう。
接する人に応じて、それぞれの役割を全うすれば良いでしょうが、必ずしも毎回何かをやらなければいけないということではありません。
夫からすると妻。
親からすると娘。
友人からすれば友人。
でも友人と言うのはお互い30過ぎればお互いの都合があるので毎日は会えない。それはあなたが必要とか必要でない、という理由ではないのですから凹む必要はありません。
今日はこれができた、これにもチャレンジした、自分ほめ日記をつけましょう。
そうすることで自然に脳内に授かり細胞があふれます。
授かり細胞とは、人から認められなくてもそこに幸せを見出せますから評価や必要とされなくても平気になります。(^▽^ )素敵な質問をありがとうございました。
あなたと同じ悩みを抱えている方たちを助けてくださってありがとうございます。
それは必要の押し売り、わがままですね。
始めまして、洞然坊の大橋です。みんと さんは、わがままですね。(笑)
必要にされたいのでは無く、必要えお押し付けているのでは?
本当に必要に思われるのは、相手が必要と思った時に頼まれ
快く受ける、頼まれごとをこなせる人。私はそう思いますよ。
必要にされて居ない、と思い込まず。頼まれた時に、ニコッと笑ハイが良いのでは?
出来なかったら、ごめんなさい!この自然な対応が良いと思いますよ。
私の意見でした。
社会に生きる人間としての欲求
みんとさま
初めまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。
人間には、動物としての根源的な欲求(食欲・睡眠欲・性欲…)と、人間ならではの高次の欲求があると思います。「誰かに必要とされたい」というのは、後者にあたるのではないでしょうか。
私は自己分析をすると、いい暮らしをしたり、ブランド品を身に付けたりという欲求は非常に少ないと思っています。その代わり、人の役に立ち、認められ、称賛されたいという欲求が強くあると思っています。
ですので「誰かに必要とされたい」というみんとさんのお気持ちはよく分かります。ちょっと大げさに言うと、誰かに必要とされた時に自分の存在価値を自認出来るという事ではないでしょうか。
その気持ちが良い方向に働けば、「人に必要とされる人間になろう、そのために自分を磨いていよう」となると思います。
悪い方向に働けば、ご自身でも仰っている「かまってちゃん」になってしまうのではないでしょうか。
みんとさん、お互い前者でいられるよう、日々精進して参りましょうね。
「必要とされたい」という思いについて
みんと様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「誰かに必要とされたい」という思い、これは、助け合い、支え合い、分かち合いのこの縁起なる依存関係で成り立っている世界で生きていく上で確かに大切な考えではないかと存じております。
また、「必要とされたい」からこそ、私たちは色々と頑張れていることもあるのではないかと存じます。
みんと様は、その思いが人一倍強くおありであるだけに、否定、拒否されればその分、やっぱりどこか寂しくなってしまいますよね。。
とにかく、その思いも相手があって成立するものであるがゆえに、相手に受け入れてもらえるような状態でなければ、やはり難しいものとなってしまいます。そこは独り善がり、自己満足となってしまっていてはいけないことではないだろうかと存じます。少し相手の思いや考え、気持ち、都合なども汲めれるように努力することも必要かもしれませんね。
ただ、『「断られる」=「自分は必要とされていない」という気持ち』は、少し極端ではないのかな・・と危惧致します・・
あと、「誰かに呼び出されはしないかと、寝る時もスマホを握って寝るほどで、メールやSNSが気になって仕方ありません。」・・これはある意味でネット依存症の恐れがあるかもしれません・・もしも、重度の場合には、生活に支障をきたしたり、著しいコミュニケーション能力の低下を招いたり・・と弊害が出てくることも考えられます。必要に応じては、適切な医療機関・心療内科への受診やカウンセリングが必要な場合もありますので、注意がいるのではないかと存じます。
とにかく、「必要とされたい」という思いが強くなっている時には、少し立ち止まって、相手のことを考えれるように、本当に相手にとって必要かどうかを今一度冷静に考えられてみてはどうであろうかと存じております。
善処を祈念申し上げます。
川口英俊 合掌