本を読むだけで救われますか?
ときどき病気や死の不安、現実のむなしさに押しつぶされそうになり、酒に逃げ日常生活に支障がでるときがあります。
この状態から脱しようと以前から興味のあった般若心経、歎異抄、仏陀の本を読みました。
そのお陰か禁酒に成功したり(三か月間ですが)規則正しい生活を送るれる時期もありました。
しかし、継続することが難しくどうしようもない不安に襲われるとまた酒を飲んで紛らわすということの繰り返しです。
現実の不快さのまえではどんな言葉も心に響かず、飲めばすぐに忘れられる快楽に抗うことができません。
修行僧の方であれば、修行によって救われることがあるかもしれません。
私のように家庭をもち普通に仕事をして、仏陀のいうような愛するものを持つなという言葉を実践することも不可能、親鸞のように阿弥陀仏の救いを信じ切ることもできないものに救いの道というのはあるのでしょうか?
大層なことを書きましたが本当のところは、ただ苦痛から逃れたいだけで、そのためなら酒でも仏教でもなんでもいい、という本心があるのです。
駄文、散文失礼しました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「自分で何かをしたから救われる」ことは無い。
親鸞聖人が納得していたのは
そこだけだろうと思います。
何も出来ないからこそ
阿弥陀さまにすがるしかなかった。
どうせ地獄行きの自分だから
万が一阿弥陀さまに救われなかったとしても
地獄行きより悪くなることは無いと納得していた。
お酒で苦痛から逃げても
別の苦痛が増えるだけです。
仏教で苦痛から逃げても
もし逃げられなかったとしても
苦痛が増えることはありません。
「親鸞もこの不審ありつるに」『歎異抄』
"親鸞のように阿弥陀仏の救いを信じ切ることもできない"
はて?親鸞は阿弥陀仏の救いを本当に信じ切っていたのかな。
親鸞はどこに救いを見出していたのだろうね。
我々本願寺の坊さんは「宗祖親鸞聖人」「御開山聖人」などと担ぐが、たぶん、あなたとそう変わらなかったのではないかと私は思うけどな。
「自灯明・法灯明」
まるいさま
仏教は、信じたから救われるという教えではありません。
自ら自身において、仏様の教え(仏法)を実践していくことが大切なことになります。「自灯明・法灯明」
では、仏教における「信」は何かと申しましたら、教えの持つ力、効果への信頼ということになります。
その信頼を醸成していくのも仏道過程の一つにもなります。
ですから、その教えの一つ一つを慎重に吟味して、そしてしっかりと納得した上にて実践していく、その「納得」を「信頼」の根拠としていかなければならないのであります。
そして、仏道の歩みは、僧俗問わず、基本的には、聞・思・修が必要となります。
本を読むことは聞・思となりますが、それだけでは十分ではなく、やはり、師より適切な教えを対機説法(それぞれの機根に合わせて)にて頂戴しなければならないこともございます。
特に大事な教えには、口伝と言われる教えの相承系譜(教えにこめられた加持の力)が必要となることもあります。
仏法をしっかり頂くことにより、聞・思を調えて、修習に努めていくことで、特に、智慧と福徳の二つの資糧を積むこととに努めていかないと悟りへは至れないのであります。
僧俗関係なく、それぞれの与えられている立場において、できる限り頑張って参りましょう。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ありがとうございました。