仏様は作り話ですか?
はじめまして。とうこといいます。
お寺で参拝するととても落ち着くので、よく行っています。
知識も得ようと本を読んだりしたのですが、そこには「様々な仏は架空の存在である」と書かれていました。
お釈迦様はおられましたが、阿弥陀さまとか薬師如来さまはフィクションだと初めて知りました。
私は深く考えたことがなく、てっきり実在されているのだと思っていたのでその時はショックを受けました。
お坊さんはこのことを知っておられるのだと思いますが、どう受け止められましたか?
仏はいないと思いながら学問としてされているのか、存在されて人々を助けて下さると信じているのか、お坊さんのとらえ方を教えて下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私としては
仏教に限らず、お坊さんに限らず、何かの宗教を考える時、誰もが一度は考える事だと思います。
そもそも仏教とは、昔インドで自ら覚りに至ったお釈迦様が、様々な境遇の人々の苦しみ、悲しみ、迷いなどを取り除くために、その人その人に合わせて説いた教えであります。
その為、その教えは多種多様で、中には相反する事も含まれていたりします。
その教えの中に、阿弥陀仏や薬師如来なども出てきます。
それは、その時に説いていた人に合わせた教えであり、阿弥陀仏などの事を教える事で、その人が救われたのであります。
果たして阿弥陀仏などが方便なのか、真理の象徴なのか、実在するのか、お釈迦様に直接聞かなければ分からないのですが、今となっては確かめようもありません。
ただひとつ確かな事は、私自身が阿弥陀仏を信じる事によって、救われた事です。
死別の悲しみ、死への恐怖、これらから私自身が救われている事は事実なのです。
この事実があることからすれば、阿弥陀仏が存在するといっても間違いでは無いと思っています。
お釈迦様の教えは多種多様でありますので、あなたに合う教えを信仰されたらと思いますよ。
釈尊以外の仏様は作り話ではありません。
阿弥陀如来や薬師如来は歴史上の人物ではありません。この世界に現れたヒトがヒトとして仏に成ったのは釈迦如来(釈尊)が唯一です。しかし阿弥陀如来や薬師如来は作り話ではありません。
仏教は釈尊が説かれた教えを元にして伝承・発展・維持されて来た、ヒトが仏に成る教えと実践の総称です。
釈尊が直接的に説かれた教えの「口述筆記」的なものは一つも残っていません。釈尊入滅後に弟子が集まって釈尊の教えを「うた」にして全員で覚え各地に伝道しました。その後何百年もたってから「文字」に残しました。そういう意味では「釈尊の直説」は皆無です。
文字にして残された釈尊の教えの最も初期の形態だと言われているものがいわゆる『阿含経』です。しかし現存する最も古い『阿含経』にも後代の影響が皆無ではありませんし、もちろん釈尊が直接的に『阿含経』を説いたわけでは全然ありません。
その後、釈尊の教えを深く理解し、その思想を広く発展させていく流れの中で「大乗仏教運動」が興隆しました。
この過程で実在が明らかになっていったのが阿弥陀如来・薬師如来・大日如来など釈尊以外の仏です。釈尊が説いた「縁起の思想」が「空」などに体系づけられていくのも後代のことであり、現存するさまざまな仏教は、これらの流れの中で受け継がれてきたものです。
歴史的な実在のシッダールタが何を説いたかが科学的に明らかになったとしても、それだけが仏教だということではありませんし、シッダールタだけが仏であるということでもありません。
何が仏であり何が仏でないのかは、自分自身が仏に成るか成らないかという問題とその周辺でのみ問題になります。自分が仏に成らないのなら釈尊が仏であることも作り話です。また、自分が仏に成る存在であることが明らかであるなら、釈尊は仏であること、釈尊ではない仏もまた仏であることに気付いていきます。
仏教の教えの中には、この世界に対する深い知識や哲学的な思想があります。しかし、仏教は知識や処世術や哲学ではありません。自分が確実に仏に成る教えとその実践の総称が仏教です。
ちなみに、わたしの場合は、釈尊は、「阿弥陀如来という仏がわたしを救う。その証拠が南無阿弥陀仏で今わたしに届いている」という真実がこの世界で明らかになるために現れてくださった仏です。
釈尊以外の仏様は作り話ではありません。
仏の三身…法身・報身・応身の三つの身体
目に見えない存在なので証明しようがないというのは事実。
ここからは私の個人的な解釈です。
「仏の三身」という言葉があります。
三つの身体があるということです。
法身(ほっしん)・報身(ほうじん)・応身(おうじん)の三つです。
法身はそのすべて、世界すべて。ひとつの存在。「三身即一身」という言葉は、その存在はすべて同じものとあらわしている。空。
報身は、目に見えない存在。目に見えない世界。肉体がない。(霊体?など)あの世。そのなかでも如来は悟りを開き、輪廻転生を必要としない存在。(霊・真我・如来・ブラフマンなど)
応身は私たちのような存在。目に見える世界。肉体を持つ存在。この世。その中でも菩薩はあの世から私たちを救いに来られている存在。(人間・自我・菩薩・アートマンなど)
おそらくわかる人にはその存在が、世界が、わかったのだと思います。
そこで、その存在に名称をつけたり、擬人化したのが。
現在沢山いる仏様たちなのではと思います。
法身仏(ほっしんぶつ)―大宇宙の原理・真理・ダンマ(ダルマ、法)そのもので姿も形も無く、ただそこにあるのみで、大宇宙に遍満している光のエネルギーの源を擬人化した仏。顕教では毘廬遮那仏と名付け、密教では大日如来と名付く。
報身仏(ほうじんぶつ)―法身仏の叡智、光明、愛、慈悲が果報となり顕現した化身仏。法身仏の数多くの力、働きがそれぞれ別々に姿を現した仏。阿弥陀如来、薬師如来など多数おられる。
応身仏(おうじんぶつ)―報身仏が衆生を救うために応化して、此の世に自分の分身を人間として化生させた分身仏。釈迦牟尼如来、弥勒菩薩、などがおられる。全ての人間も悟れば応身仏になりうる、報身仏の分身である。
あくまで個人的見解があることをご容赦ください。
諸説あります。
最後に仏教は読んで字の如く、仏様の教えなので、教えの実践こそが、一番大事です。勉強されても、実践がなければ何にもなりません。
亮英合掌
それはあなた様自身が信じるか信じないかです。
お坊さん信仰者でしからね。熱いんです。熱くなるんです(笑)
何人ものお坊さんがお答えされているので、いいかなと思ったんですが、流せませんでした。5歳の時から理屈ではなく、絶対に救われるんだ。仏さまは守ってくださる。自分も修行して仏様になるんだと、半世紀やってきているのでね。スルーはできませんでした。
信心は信じることです。実際に極楽浄土には死なないと行けないのでわかりませんが、生き仏さまのお釈迦さまがおっしゃり、偉いお坊さんがみなさん、あるというんだから、私はあると信じています。絶対にご加護とみ教えをいただいているんです。奇跡体験はいたしませんよ。そんなのはどうでもいいことです。何故なら、偶然の出来事だと片付けたら偶然だからです。そこを仏様のお陰様と考えるのか、偶然と捉えるかは、あなた様の人生の主人公であなた様が、思うことです。お釈迦さまを実在とおしゃいますが、実在するものしか信じられないとすると、奇跡が起きないと信じられないことになりますね。
そうすると、お釈迦さまがお説きになった教えは、教えではなく空想になりますよ。逆説的に言えば、お釈迦さまは夢想家に過ぎないことになりませんか?お釈迦さまは信じられるが。他の仏様は信じられないのは自己矛盾のように思えます。仏道とは仏様になる道です。実際に仏様がいようといまいとどうでもいいんです。信仰は精神世界、魂の世界の話です。仏様のお像は我々にとって目当がないと、なかなか祈れないので、偶像化したのが仏様です。もっと言えば、姿も形もなく、色も匂いも気配もありませんが、あなた様に寄り添って、あなた様を守り育ててくださるのが、仏様だと、私は思います。何千年も経っているのに、こうしてあなた様の中に、お釈迦さまはいらっしゃる。これこそ奇跡であり。仏様の実存を示すものだと思います。南無阿弥陀。
どうかお幸せに、御精進なされませ。
作り話ではありません。
仏様はおられ、私たちをお救い下さいます(^ー^)
どなたのどうような書物を読まれたか分かりませんが、「様々な仏は架空の存在である」だと言うならば、それはもはや仏教の話ではありません。
確かに、日本に伝わる大乗仏教が仏説ではない(偽物のお経である)という『大乗非仏説』という考えがあります。
しかし、私はその説を全く問題としていません。
私はお釈迦さまがおっしゃられたことをそのまま聞き、そのまま信仰しています。
尊い仏様がおられ、私もその仏様と同じ悟りの境地へと至ることができる教えに出遇えて、私はとても幸せです。
物語
日本に大陸から経典が伝わった時点では、どれもお釈迦様が説いた経典としてもたらされたので、日本の仏教徒にとってはすべて経典として敬われてきました。
しかし近代になって、実はお釈迦が亡くなってから何百年も後に創られた経典があるのではないか、他の宗教の影響も受けている内容があるのではないか、という学説が出てきたのでしょう。
日本の宗派は、それらの経典が経典であるという前提の教えになっています。
私個人的には、物語として心に響くものがあるのか、仏教の教えに導く内容であるのかが重要だと思っています。
しかし、もしも科学的にどう考えても後から創作された経典だと証明できたなら、経典ではなく物語だと認めてもよいと思います。
物語だと認めたほうが、ヘンテコな狂信(お経を唱えたら病気が治る等)に陥らなくて良いケースもあるかも。
たとえば、お釈迦様の前世のエピソードである「ジャータカ物語」は、その内容の真偽は確かめようがありませんが、仏教思想のエッセンスが詰まった物語として、教化活動の教材に使われています。
経典ではなく物語であっても、教えが詰まった素晴らしい物語だと言えるでしょう。
方便について
とうこ様
嘘も方便という諺がありますが、本当に嘘であるならば、経典類もこんなに長らくは残らなかったことでしょう。是非、根底に控えてある真理へのアプローチを目指されて、これからも仏教を学び修して頂けましたら幸いでございます。
以下は、少しご参考までにて。
正直なところ、釈尊は、教えを文字で残すことを許されなかったため、後世に文字にて表されて伝えられている経典というものは、誤解を恐れずに申せば、釈尊のそのままの真意なる教えとして捉えて良いものかどうかは、非常に疑わしく、また、文字で表されたものは、釈尊の教えでないとするならば、全て「作り話」と言ってしまっても、ある意味において過言ではありません。
なぜ、釈尊は、教えを文字で残すことを許されなかったのか・・
拙私見ですが、「文字化→概念の固定化→実体視→執着→迷い苦しみ」ということがあるからではないかと存じております。
また、文字化の否定のことを「言語道断」、「戯論寂滅」、「離戯論」、「離言真如」などと概念化してしまっても同様なことになりかねず、やはり、宜しくないものとなってしまいます。
しかし、それでは、一体どのようにして釈尊の教え、仏教を修学・修習していくべきであるのか、となりますと、如来が不在である以上、やはり、私たちは経典を頼りにしていく他に、その教えを学び修していく術はないのであります。
もちろん、経典は、何も根拠のない教えというわけではありません。八万四千とも言われる釈尊の善巧方便による無数の教えにおける、ある一面であったり、要約や公約されたものであったりと、それぞれの経典における方便的な立場があると考えることができます。
アサンガ大師は「摂大乗論」にて、「最清浄法界等流」というお言葉を使われておりますが、まさに、清浄なる真理の世界から流れ出ている教えであるとして、経典の内容について、慎重に吟味して扱う必要があると存じております。
問題は、では、どの経典やその中の教えが、(自分やそれぞれの衆生に対して)頼りになり、あるいは頼りとすべきかということについては、それも慎重に判断していくことが必要となります。
問い「お経の種類」
http://goo.gl/jMyf57
問い「龍樹と唯識」
http://goo.gl/GnWUpc
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
回答ありがとうございました。
難しくまだ理解できていない部分もあるのですが、たくさんのお坊さんの意見を聞かせて頂き、とても参考になりました。