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懺悔

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現在高二なのですが、私は中学のころ、あだ名を言う、言われるの二つの体験をしました。
私は唇が太く、ぼってりしているのでそのことであだ名をつけられ、また不細工なのでからかわれ、当時は、家に帰ると独りで泣き、鏡を見て絶望し、自分なんかいないほうが良い、と考えていました。そのネガティブな気持ちはつい最近まで続き、もともとの神経質も関係し、苦しかったです。
また、私は、苗字があるレスラーといっしょだということで、プロレスラーというあだ名をつけたり、態度がおっさんぽくて目が丸く大きいということでおやっさんというあだ名をつけたりして、数人とそのあだ名を言い合って笑ったりもしていました。後悔するころには前者は転校、後者は転塾していました。彼女らには、実際会ったりや、メールで謝るなどの行為はもうできませんが、心の中でなんども謝り、またそれがきっかけで自分をかえることができ、今ではネガティブには決してならず、不平不満悪口も一切言わないようになりました。
このことは全て親に話し「実際に謝れないのなら、心でしっかり謝り、罪悪感を持つのではなく反省をしなさい」と言われました。当時共にあだ名を言っていた者にも相談したのですが、彼らは、罪悪感など一切なく、あだ名を言ったのも青春の1ページさ、などと言っていました。
最低な行為をしたことはわかっています。しかし過去は変えれませんし、過去に縛られていては未来でも同じ過ちを犯してしまうかもしれません。そうは思っていても、私は極悪人で、まわりとはけた外れに悪いことをしてしまったのではないかと思い、勉強にも手がつきません。
これから私は、どのように過去の過ちを捉えていけばよいのでしょうか?また、罪悪感を持つことと、反省とは違うのですか?どうか御回答よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

反省は 反映してこそ

反省と言うのはこういう顔( >_<)や、凹んだ態度や意味のない心の中のネガティブな反復運動よりも、
今後一生、ゼッタイしない、やらない、させない、という実生活での誓い、慎み、が大切なのです。
社会に出れば、反省してる顔を四六時中してないと「テメ、反省が足りねえんだよ」とかネチネチ言われる世界もありますが、それはさておき、人生における最上の反省は、今後に「反映させる」ことです。
「反省一日、反映一生。」
もう反省すべき事は心の中で見当たらないのでしょう。
あなたはその人たちを傷つけた事を後悔している訳です。
今後はそういう人を傷つける行為を慎み、他の人にも自分の懺悔、反省からさせないようにしましょう。
自分も含めて、他者もそういう人を傷つける道に向かわせないよう、そういう反映をさせるように心を廻らし向けてください。
どうしても謝りたければ、きちんとあって謝罪するか、お手紙でも良いでしょう。
いつか同窓会などで会う機会があった時に誠意を持って謝ればよいと思います。

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過ちは誰でもするもの

いじめられたこともある者としても解答させて頂きます。
今になって思えば、いじめられた経験は自分を成長させる肥やしになりました。
人は生きている限り過ちは犯すものです。
仏教には時効はありません。
だから生きている間は自分の犯した罪を反省します。
今のあなたは確り反省が出来ているから大丈夫!!
もう二度と同じ過ちは犯さない!!
この決意が大事だと思います。

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有坂脩岳(しゅうちゃん)
『般若心経』を梵語(サンスクリット語)で読める日本でも珍しいお坊さんです。...
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思い出したのだから許される

私自身も、かつての同級生に会ったら謝りたいと思う事が多々あります。大和さんは高校二年生という若さでそのような気持ちを持たれるという事は、本当に慈悲深く感受性が豊かなんだろうと思います。

世の中のほとんどの人は、そんな昔の事を忘れてしまうし、誰だって、忘れてしまうことがほとんどではないでしょうか。そんな中、「思い出した」という事は、それだけでかなり前進しているのだと私は思います。大和さんがご自身を「極悪人と思ってしまう」と書かれていましたが、本当の極悪人は「思い出さない人」だと私は思うのです。

大和さんは「思い出した」のですから、もうそのことだけで、充分に反省され、懺悔したのです。思い出し、反省するという「経験」をしたのだ、ときちんとご認識ください。そのこと一つで、大和さんはもう十分に許されているはずですよ。

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住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、...
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「慚愧」

大和様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

まだ高校生でお若いですのに、自らの過去の過ち(あだ名の付け合いぐらいは、中高生ぐらいであればよくある悪ふざけの部類で、それほど深刻な過ちではないかとは存じておりますが・・)と真摯に向き合われておられる姿勢、誠に感服させて頂きました。

さて、「どのように過去の過ちを捉えていけばよいのでしょうか?また、罪悪感を持つことと、反省とは違うのですか?」でございますが、仏教では「慚愧」(ざんき)という善い行いがございます。

実は、「慚愧」につきましては、これまでも下記のような問いの各回答にて扱わせて頂いております。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/慚愧

改めて、

「慚」は、自分の心の中にて悪いことを反省したり、恥じたりすることです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/慚

「愧」は、悪いことを恐れたり、または他の者に対して反省や恥じたることを表すことです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/愧

まさに、大和様は、内容を鑑みさせて頂きますと、この度は十分に「慚愧」という善い行いをなさっておられます。

もちろん、この「慚愧」することから、更に、二度と同じような過ちはしないこと、相手に会うような機会があれば、反省や謝罪の思いを伝えること、もしできることがあれば償いを行うことも大切なことにはなります。

ただ、あだ名の付け合いぐらいで、そこまでしなくても・・という意見も恐らくは多いのではないかとは存じます。

今回のことは、これからの善い行いを進めていくことにも活かして頂くとして、一つは、他に迷惑を掛けない、自分のされて嫌なことはしないという善い行い(代表的な十善)と、もう一つ、苦しみ困っている者がいれば積極的に助けていく、施していくという善い行い(慈悲・利他行)と併せて、努め励めるようになさっていかれるとより良いのではないかと存じております。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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