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葬式仏教?

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以前書き込みした「葬儀が無くて暇」の寺での話です
某有名人の葬儀をしたのがよほど嬉しかったらしく
住職がその様子をいろいろ話してくれました。
この業界で有名人の葬式を行えるのは
ステータスか何かですか?
遺族の悲しみを想像すると坊さんの嬉しそうな様子の
ギャップが未だに埋まりません。
とある質素な葬儀を悪い見本のように言い
盛大な葬儀を良い見本のように聞かされたこともあります。
お寺さんから見たら人の死はそのような扱いなのでしょうか?
そもそも個人的なに葬儀の内容を他所で話されるのは
有りなのですか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

スルーすればいいだけの話

こんにちは。

あなたの過去の質問を読んでいると、ほぼ全ての質問でお墓があるお寺の「住職」を取り上げて、その内容をここにに書き込んでいます。質問のたびに、この「住職」がこんなおかしい事を言った、こんな酷いことを言われたと書き込んでいます。

話しかけられて仕方無しに少し話を聞くのならわからないでもないです。

しかし、「理解に苦しむその2」という質問の場合においては、「墓参りで猫が無事元気になるよう祈っていたところ住職に話し掛けられたので治療のことを話したのですがあまり病院に連れて行くと余計体調が悪くなるので行かないほうがいいとのこと神経を逆撫でされた感じで本当に腹が立ちました」と書いています。

一回目の質問で既にその「住職」とのやり取りを通して「日本の仏教自体嫌いになりそう」とまで書いていながら、なぜ次の機会に自分の大切な猫の病状という切実な話をその「住職」に話すのでしょうか。「神経を逆撫でされ」「本当に腹が立ちました」というのは目に見えていたことでしょう。

一度目なら分かりますが、その「住職」当人がいないところであなたと話した内容をここで何度も書き込むこと自体感心しません。その当人が居ないところで陰口を言っているかのような居心地の悪さを感じるからです。

「そもそも個人的なに葬儀の内容を他所で話されるのは有りなのですか?」とあなたは書いていますが、あなたがその「住職」と話した二者間の内容を、毎回と言っていいほどここに書くのは「有りなのですか?」。

あなたは、今回もその「住職」の「某有名人の葬儀」の話を聞きながら、ここに書こうと思ってふんふんと聞きつつ、どんな事を言うだろう聞いていたのではないですか。

あなたがその「住職」に失望しているのは分かりました。

お墓があるから話しかけられることはあるでしょうが、どうせ不愉快な話になるのでしょうから、今日は急いでいますから等と言ってスルーすればいいだけの話だと思います。

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有り難し
おきもち

浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布教研究専従職員 元龍谷大学講師 元篤志面接委員(法務省管轄) 真宗学修士、心理学学士 Fmみっきい(地元ラジオ局)出演中 趣味:サックス 2019年末頃から回答しています
応談できる時間帯は、その日によって違いますのでお確かめ下さい。 月曜日〜金曜日(祝日除く)13時〜21時 土曜、日曜、祝日 18時〜21時 お盆(8月1日〜15日)、お彼岸は対応できません。

その人の非を自分を高める機縁として一切を善導する精神を

(._.)今の時代もいつの時代も僧職で僧侶の恰好をしているから僧侶とは限りませんよ。これはどこの業界も同じでしょう。その職に就いていながらも「その職には適さない人」はどこにでもいるものです。警官だから真っ当な人間性なのか、教師だから全員が聖職者と言えるのか?1000人が1000人その職に適した人とは言えない人が必ずいる。医師だから人を救う気持ちがある立派な人かと言えばお金オカネした人もいる。親だから子供を愛する立派な親かと言えば毒親もいる。お客様だから全員が神様か?と言えば買いもしないのに試食だけする人もいる。(あなたも自分に問いかけてみましょう)テレビ・新聞だから真実を報道しているか?いいえ。自分たちの主義思想にマッチする切り取り偏向報道ばかりのメディアも沢山。正義を振りかざす人も、人の非を切りつけるものの自分には目が向かない人も多い。よって、この手の問題は「あなたがわがこととして」受け止めましょう。自分がどうか?では自分は自身の人間性が完璧かと問う。自分も相手も善導する気持ちを持てばお互い磨かれ合うのではないかと思います。その人個人が許せんというのであればその人とあなたとが直接話し合ってご自身の主張をその人にお伝えされたらいかがでしょうか。
パン屋の業界の人間だからと言ってパン業界の人間の隅々まで把握しているということはありません。農作物を作る農家の方が見知らぬ県の農家の人たちの作る野菜の点検をする時間などありません。同じように僧侶といっても色々。自称僧侶・事・食べていくための事務的僧侶、寺の息子僧侶、たまたま縁あってその宗派に所属した僧、結婚相手がお寺の人だったからたまたま僧侶になった僧、いろんな「個人」が世間では「僧侶」として認識されていますが「実際」のところはその人「個人」。縁によってたまたま「僧」という職についている場合もあるわけです。そういう人たちを徹底排除できるかといえばそれは不可能。その人の感性は僧侶としてはあるまじき行為といえましょうが。人を批判するのは簡単。人生の主役はあなたはあなた。あなたがあなた自身の人間性を高めることがあなたの仏教。ゆえに、その人もあなたも傷つかないように、お互いが納得できるように磨き合えるように関わる程度でよいのではないかと思います。悪や不正や非など「おかしなこと」を正すにもそれに適したルール・作法・方法があるはずです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

問題は真に引導ができたのかどうか

MMMさま

導師をお勤めさせて頂いて尊いご仏縁を介させて頂くというのは、それなりに双方共のご縁の結びつき、ご縁の紡ぎが無いと難しいものとなります。

ご縁を頂戴できたことは確かに有り難いことではありますが、まあ、それがとても嬉しかったのでありますでしょう。

しかし、現実に真に葬儀において引導、導引ができるのかどうか、できたのかどうかは、全く別の話となります。自慢云々より、こちらの方がよりはるかに重大な問題です。

このことにつきましては、少し長く煩雑となりますが、下記の拙論考をご参照下さいましたら有り難いです。

https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/4f8d432e1c2771b3fb2546353e98e7ed

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

丹下覚元様
お忙しいところコメント頂きありがとうございました。
今後は寺や仏教とはなるべく関わらないようにします。

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