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お寺の存在価値って?

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初めて質問いたします

曹洞宗の家系です
私の家は昔からある菩提寺さんにお世話になっているのですが
家にも仏壇がありお釈迦様や道元禅師様などが祀られております、またお経も毎朝読むようにしております

そこでふと思ったのですが、お寺に出向いてお坊さんにお経を唱えてもらうのはなにか意味があるのでしょうか?

お仏壇にはお寺と同じお釈迦様が祀られておりますし、お経も自分で唱えております
わざわざ高いお布施を出してまで行く理由がわからなくなってしまいました

宗派によって考え方が変わってくると思います
できれば曹洞宗のお坊さんに答えをいただきたいです
よろしくおねがいします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏道実践を見習うため

yosiさま

おっしゃるように仏壇の役割は、毎日お寺の本堂のご本尊様にお参りできない代わりとなります。

毎日の勤行、読経は確かに仏壇の前にて事足りるところとなります。

では、僧侶に読経してもらったり、あるいは説法を頂いたりする価値は何かということですが、一つは仏道実践を見習うためであります。

その毎日の修行や所作の様子、思考等を真似て、自分もそのように実践して向上に役立てていくためとなります。

もちろん、中には全く参考にならない僧侶もいるでしょう。

参考になるならば行って活きた仏教を学び、参考にならないようならば、別のとこを探して行くなりするのが良いでしょう。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

菩提心、宗教心を高めて自らが一切を救う人となるためです。

❝血が通った仏法・仏道を真剣に求める❞ことで問いの答えははっきりされると思います。仏教の原点は釈尊であり菩提心。
お釈迦さまも道元禅師も発心(発菩提心)があったからこそ、歴史、国境を越えて人々を救う作用体としてあり続けています。菩提心こそが釈尊、道元禅師、優れた祖師たち輩出したといってもいいでしょう。
ですから貴女もこの問答を機縁とされ菩提心を強くおこして真剣に生きた仏法を求めて頂ければ今度はあなた自身の活動が仏法・仏心を広める救済活動となり生きた菩提心の活動体になられるのです。なぜ寺に布施をしなきゃいけないのか?あなたが生きた救済活動体となり自分も人も救える人となる為です。その為にも今日、四弘誓願文を念じ、一切衆生を救わん、自身の迷いも絶たん、仏法を学ばん、仏道を成ぜん!と誓願することです。法要とはそういう善導の場。血の通った真剣な求め、問いの心こそが貴女の人生初の発・菩提心です。またいずれと先延ばしにせず有限の命、無常を観じ、即座に仏法を明らめんとする心もまた菩提心です。
菩提心とは自身が悟り・仏法を明らめんとする心。同時に仏の教えの最上のところ「法そのもの」に安住する精神であり、一切を救える心です。
菩提心こそが仏教の宗教精神です。他人事にせず自分自身が持たないといけないのです。当山でも初七日(初願忌)に参列の皆様に四弘誓願文を唱えて頂き、故人様や先亡様方への報恩感謝の勤行として「菩提心の誓願」をお願いしております。法事のたびにそれをお願いしております。
お寺での読経供養の意義の一つは、参列者がみな釈尊や道元禅師と同じく菩提心を奮い起こし、高めるということが最も大事だからです。ご本人が生きた菩提心の塊ともなれば、その人一人いるだけで世界の苦しみ、迷い、ストレス、恵まれない環境、人類悪をも善導し、より高い人間性に導く人間となるからです。これに勝る功徳はありましょうや?
私自身も曹洞宗の師家、井上貫道老師にあらゆる苦しみから救われる素晴らしいお導きを頂き「本当に血の通った生きた仏法」と確信し、参禅してまだまだ青二才ながら、一句一偈の法をも布施しております。法布施、財布施、行の布施も布施。なぜ布施(利益)をするのか?ではなくは私達がすでに先人から布施利益されているのです。だからこうしてネットで容易にやり取りもできるのです。報謝として布施せずにはいられませんね。✨

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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