人は死んだらどうなると思いますか。
生まれる前に決められた”生きる時間”があるとして、その途中で生きるのを自らやめてしまった人はどうなると思いますか。
病死や老死などの、人生を真っ当に生きた人と、自ら命を絶ってしまった人では魂の行先は違うと思ってます。
自殺したら楽になるとよく言ってる人を見ますが、本当に楽になれると思いますか…?。
私達は私達の世界しかしらないだけで、その後の世界のことを知りません。
”その後”に何かがあるのかもわかりません。
だからこそ”楽になる”と、なにもわからないのに言います。
自殺をしたら、どのくらい苦しいことが待ち受けていると思いますか…?。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「基本の三身の構造をよく明らかにする燈明」
しるびあさま
仏教においては、生、死、中有のプロセスについて明解に解説されるところとなります。
最も役立つのが、ゲルク派版「チベット死者の書」(平岡宏一先生訳注)として刊行されているヤンチェン・ガロ大師の「基本の三身の構造をよく明らかにする燈明」となります。
いずれにしても、次の行き先に大きな影響を与えることになるのが、輪廻を司る微細な意識の状態における「業」(カルマ)となります。
このカルマの状態に応じて次の生へと向かってゆくことになります。
それがより善いものであれば、より善い転生となり、悪いものであれば、悪い転生となります。
この「業」(カルマ)をより善い状態へ向けて近づけていく方法として説かれてあるのが仏教となります。
まあ、もしも過去世、生前の行状、業の状態を何も問わずに、死んで全てが楽になる、極楽に行けるとするならば、皆、さっさと死を選ぶ方が得策でしょう。しかし、仏教ではそうではなく、真なる楽は、悟り・涅槃という境地へと至らないと不可能であると説くところとなります。
その真なる楽へと向けては、仏道を確かに歩むところが求められるものとなります。
また、自殺における業は、善業・中性業・悪業とケースバイケースであります。
もしも、無明(根本的な無知)・煩悩による自殺であれば、やはりそれは悪い業となるでしょうから、宜しくないものとなります。
もちろん、無明(根本的な無知)・煩悩によらない自殺であれば、中性業。
あくまでも例えとなり、仏教では基本的に自殺は推奨できませんが、善業になるものとなれば、無明(根本的な無知)・煩悩によらずに、しかも、例えば、明確に誰かの助け、救いとなるような自殺であれば、そうなると言えるかもしれません。
いずれにしても、是非、上記の書から学ばれて下さいませ。
川口英俊 合掌
人間が考えた「行先」と、仏様が考えた「行先」
こんにちは。
あなたの表題の問いは、自分自身に向けられた問いなのか、第三者に向けられたものかはわかりません。自分事としてか、他人事としてか。ここには大きな問題意識の差があります。
しかし、その前提は一旦保留にして回答してみます。
「人は死んだらどうなる」か。
人間の頭だけで考えては決して分かりません。
そもそも分かる人は居ないでしょう。
同様に「自殺をしたら、どのくらい苦しいことが待ち受けている」か、ということも分かりません。繰り返しになりますが、人間の頭だけで考えては決して分かりませんし、そもそも分かる人は居ないでしょう。
そう、人間の側だけで分かることは所詮限られているのです。
むしろ、知ることが出来ると考えることこそ、自らの分を超える発想なのです。
「人生を真っ当に生きた人と、自ら命を絶ってしまった人では魂の行先は違うと思ってます」と書いています。
仏教では、「魂」という不変の何かを前提としません。
諸行無常ですから。
しかし、諸行無常であるがゆえに、現在という確かに踏みしめられる一瞬を貴重なものとして捉えます。どんな未来への変遷があろうが、手の届く範囲、生きられるのは現在だけだからです。
「行先は違うと思ってます」と書いています。
これは、先に述べたような、人間の能力を超えたことを言っている(断言している)ことになりませんか。それは、言葉を変えれば、人間が考えた人間の「行先」の話でもあります。
私の仏教では、命を終える道筋、状態によって「行先」が変わるとは教えられません。ご信心の有無によってのみ「行先」が決まるとは教えられます。要は、自分を拠り所にせず、仏様を拠り所にするという拠り所の転換が出来ているか否か、です。
仏様は、極楽浄土という「行先」に私を連れゆくと仰せです。
それは、仏様が考えた仏様の世界です。
人間が考えた人間の世界ではありません。
人間である自分が、人間の考えられる許容範囲を超えて考えた人間の「行先」の世界に生き命を終えゆくか。
仏様の「行先」の世界に生き命を終えゆくか。
ここから先は、自分の選択次第です。
死んだらどうなる、こうなるというその炎はどこに着く?🔥
自殺とは自分を殺すだけではなく、周りの人も苦しめてしまう哀しい行為。
ですが、本当はその前の問題があります。
「(# ゚Д゚)自殺を選びたくなるほど嫌なことがあった!」という事です。
私も学生時代死にたくなるほど悩み苦しみ凹みどん底何もやる気せん士ボトムズでしたから、その心はよくわかります。
自殺したくなる人には生か死かの選択の自由ぐらいくれ!と言いたくなります。
ですが、その前に死にたくなる程追い込むこの理不尽な社会や悪徳人間を問題視してくれ!と言う声がある。人を自殺に追い込むほどの…生きた人間達の💀MADな狂気こそが真犯人ですよ。
そこがいつも問題視されないで被害者や死にたい人が軽視されるのが今のおかしな日本です。
加害者擁護ばかり被害者が報われず・浮かばれず・泣き寝入り。冗談じゃないですよね。私はガツンとバッサリ言いますが、まず、死んだらどうなる?よりも生きる人を死に追い込むな!という声をあげて人も自分も幸せにしましょう。✨
さて、死後の世界とは何か。
死後の世界とは一つ目は「この世界」なのですよ。私が死んだ、誰かが死んでもこの世界に遺された生きている人たちは今も生きている。今こここそが私や誰かが死んだ後の「死後も続くこの世界」です。そこを最高の安土にするためにも皆の心を善導しなければならない。貴女も死後どうなるだろう?という不安や誰も帰ってきたことのない死後の世界を今、時間をいたずらに費やして論ずるよりも、あなた自身や多くの人を幸せ、安楽、笑顔に導く救済マン、善玉菌マン的精神こそが大事なのです。その人こそがこの世界と死後の世界も、身内を失った人の心をも導ける善玉菌マンの大導師だからです。
その志を菩提心と言う。
真の菩提心を起こす人が一人でもいればお釈迦様や祖師のようになる。
人を救う。困っている人を放っておかん。助ける。導く。心の方向性を示せる。
ぜひ貴女も心の善玉菌系女子、仏道系女子、菩薩系女子✨を志願してみてください。
死んだら楽になれるという人は💀負の共有系男子・女子。
私はそんな暗い人たちをも助けたいと思います。
自衛隊に助けられた人が自衛隊を志すように、私は自分を救ってくれた仏法、仏道の善導隊員として心の煩悩や苦しみを鎮火したいです。
死後の世界はどこか?ああだ、こうだというその心の炎はどこに着く?
みんな頭の中の暖炉の中でしょう?🔥
質問者からのお礼
川口英俊様
ご回答頂きありがとうございます。
「チベット死者の書」を読んで学ばせて頂きます!
教えて頂きありがとうございます。