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怒りを抑える方法を教えてください

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有り難し有り難し 19

こんばんは
いつもありがとうございます
相談なのですが、怒りを抑える方法を教えてください

友人にAさんの愚痴(迷惑をかけられた話)を言ったら友達がAさんに直接「こんなこと言ってたよ」と愚痴の内容を言っていました

Aさんに直接「ごめん」と謝られました
謝ってほしいわけではなかったし
全然気にしてもいなかったので申し訳ないです

友人になんでAさんに私が愚痴った内容を勝手に話したのか、問い詰めたいし怒りたいのですがその子はとても繊細なので怒ることが出来ません

怒りを抑えるいい方法はありますか?
文章が下手ですみません


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「陰口」になったかも

怒りの問題の前に、今回のことは、「陰口」になってしまって少しややこしくなったような気がします。
 仏教では、嘘だけでなく言葉の問題をもっと丁寧に、4つに分類しています。

 嘘(事実と違うと知っているのに言う・騙す)
 陰口(自分や誰かの良くないことを本人以外に言う・うわさ)
 悪口(言い方がきつい言葉を言う。「能なし」などハラスメントになるみたいな言い方の言葉)
 無駄話(内容がない時間が無駄になるだけの話)

 自分が困った時に、誰でもついつい、他の誰かに相談してしまうのですが、その時の相談する相手、相談の言い方、相談の内容によって、「陰口」のようになってしまうことがあります。(わざわざ人の悪いことを誰かに言いふらす本当の「陰口」は当然ダメです。)
 親や親友など信頼できる相手に対して、自分が困っていることを、言いふらすためでなく解決するために言うなら、OKでしょう。

 自分が怒っても、相手や他の誰かにすぐに反応するのではなく、「これは自分にはこういうダメージがあるなあ」と客観的に自分の心を観察してみたり、「怒りはともかく、言われた内容は、された内容は、どういうことだろうか」と、内容だけ適切かどうかを考えてみたり、そういうことをしていると、怒りも薄くなりやすいかもしれません。
 スマナサーラ長老の『怒らないこと』『怒らないこと2』を読むことをお勧めします。類似本が後からたくさん出た、その本家本元の本物です。

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初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本仏教、浄土真宗ということで活動しております。 先祖供養とか功徳回向とか、みんなお釈迦様が最初からおっしゃっていたって、ご存知でしたか。私たちも謙虚に堂々と日本仏教しましょう。

求不得苦(ぐふとっく)…求めるもの・ことが得られない苦しみ

怒りのは今の不満や困ったこと、思い通りにならないことを怒りでのりこえようとする人間の天然のエネルギーです。🔥
火もハサミも怒りも用い方次第。
怒りそのものは使い方さえ間違えなければ、世の中のおかしなことを正そうとする力にもなります。昔の偉い人たちも怒りを覚えることがあったでしょうが、それを上手に用いて「(# ゚Д゚)なんとかしなければ!」と公憤・義憤というオフィシャルで私的感情のない怒りのエネルギーで偉業を達成されました。
私も死にたいとき、怒りを覚えて「(# ゚Д゚)こんなことでしんでたまるかっ!人生もっと本当のことがあるはずだっ!」と怒りで生きる気力がわきました。
世間でひどいことを見たときに「(# ゚Д゚)何とかしなければっ!」と怒りが沸いて高い人間性を求めるようになりました。

ただし、他人に怒りを向けると攻撃的になるので要注意です。
どんなにイケメンさんでも美人さんでも家族や仲間に怒りで当たり散らしていたらどうでしょうか?ドン引きですよね。芸能界でも表向きのイメージは良くても裏では立場が上だからと後輩さんに強く当たり散らしている人がいればイメージ・印象が悪くなるものです。怒りは誰も好みません。本人が良かれと思って正義のつもりで会っても牛もニワトリも食べません。モウ、ケッコーです🐓🐄

怒りを無くす方法は、スマホやPCやタブレットから要らないアプリを排除するように、この自分自身から「アタシ」という意識を立ち上げないこと、せめて薄くすることです。人間は知らずのうちに自分が自分がと自分の出しゃばり意識「ガ(我)」という🦋蝶々の鮮やかさとはチョット異なる不気味な姿をした蛾のようなエゴが生じてしまうのです。素直な子と意地っ張りな子の違いがそれです。おとなしい子と自己中心的な女子との違いがそれです。
お坊さんがなぜ坐禅や瞑想をするのかと言えば実は一つはこのガを抑えて、立ち上がり以前の心のアドレスに住しているのです。このガを抑えた心で生活すると怒りが沸きません。
好き嫌いや腹がたつ、怒るということはみんな「私にとって」と言う事でしょう。だから、この「私にとって」という意識を無くすためには自分の我を起動させない事。私の中から「私」アプリを起動させない工夫が大事です。
これを機会にガを離れる為、坐禅=禅定を修行してみては?
井上貫道老師の動画を検索してみてください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

自分のせいだと思うこと

他人への怒りを軽減する方法の一つとして、自分のせいだと理解するのは有効でしょうね。
今回、愚痴を聞いてもらった後に「誰にも言わないでね」「うん、わかった」という約束があったのでしょうか?
口止めの約束をしていないなら、全面的にあなたの責任です。
口止めの約束をしたにも関わらず漏らされたのなら、相手にも落ち度があります。
それでも、本人の耳に入らない保証はないので、やはり自業自得と思いましょう。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

ありがとうございます
これから気を付けます

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