善行を楽しむという気持ちは悪なのか?
サークル活動としてボランティアでゴミ拾いをしております、サークル仲間とも打ち解けゴミ拾いの際も楽しさを見出せておりました。
しかし、仲間内からこのような事を言われました
ゴミ拾いやボランティアは慈善事業であり
困ってる人や環境を救うのが目的であり
それに 楽しさ を思ってしまうのは
困ってる人へ対して困ってる事を自身が楽しむ為に見ている
と指摘されました。彼の話では
救命士や消防士も現場で人を助ける際に楽しみを持ってやってるとは思わないそれと一緒だ。
と言われてから
善行を楽しみと捉える事は
悪意なのか?
と考えこの度ご質問させて頂きましたら
執着心として愛情と友情など 他者に対して過剰なまでに依存してしまいます
お坊さんからの回答 5件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
心は一定ならざるもの
こんにちは。
行いの根底には、心があります。
心が動くから、体が動くという順序です。
ただ、仏教には大きく分けて二つの道筋があります。
一つは、心を清くし、同時に行いも清くあらねばならないという考え。
もう一つは、心の清濁を問わずに、出来るところで仏様からの賜り物(南無阿彌陀佛)を大切にするという考え、です。
私は後者です。
猿が枝から枝に飛び移るがごとく、猫の目のごとく目まぐるしく変わるのが心です。「救命士や消防士」のように思えることもあり、「楽しみ」と思うこともあるでしょう。心は一定ならざるものです。
アドバイスはアドバイスとして聞いて、吸収できるところは吸収する。
しかし、自分の心の実情に合わないことを、無理やり枠をはめて矯正するかのような方向転換をする必要はない、と思います。
そもそも、あなたは「ボランティアでゴミ拾い」そのものも「楽しみ」なのかもしれませんが、「サークル仲間とも打ち解け」てその繋がりや関係性を含めて「楽しみ」と表現しているのではないですか。
それを、「ゴミ拾い」にだけ焦点を合わせて、その心の如何だけを問う。
これは、あまりに狭い論点に誘導されてしまっていないでしょうか。
社会貢献の充実感がある。
その行いと集いが楽しくもある。
それだけで十分だと思います。
これからも自分の無理のない心の範囲で、ボランティアを楽しんでください。
善行を楽しみと捉える事は悪意ではありません。
Bcatさんの行動は、とても素晴らしいことです。
>ゴミ拾いやボランティアは慈善事業であり困ってる人や環境を救うのが目的。
だからこそ、楽しく行った方がよりいいのではないのでしょうか。反対にイヤイヤ行えば、そこには愛はありませんし、適当となるでしょう。まして、強制されて行うものでもないと思います。
こんなお話をしています。
仏教の世界観に、十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏)私たちの世界を十で表し、地獄は最悪な状況を表しています。日常生活においても苦しい時はそのような表現をしませんか。又、心の状態は「怒り」となります。
又、餓鬼とは、例えば食べたいものが食べれないような状況で、心は「貪り」(むさぼり:あれも欲しい、これも欲しいような心)。畜生は、見境のないよう男女の乱れのようなもので、心が「愚か」と表現されます。
修羅は闘い。人間は「平静心」と、それぞれに行動と心の世界を表しています。
さて、今回のお話に当てはめると、例えば公衆トイレ掃除は、清潔にそして気持ちよく使って頂けるようにと行います。その行動(掃除をすること)は、人様の為にと菩薩の行いです。ちなみに菩薩は、自分も向上しながら他人を救うということです。
ゆえに、トイレを掃除することはとても素晴らしいことですが、心(思い)も合わせて、人様が気持ちよく使って頂けるようにと思えば、行いも菩薩、心も菩薩です。
しかし、こうして掃除をしている所を誰かに見てもらいたい、人から褒められたいと思う心は、すでに餓鬼界や畜生界なのです。
心と行動が一緒であれば理想的ですが、そうでないのなら、その行いからは、よくない結果を生じることにもなります。何故なら、この世界は思考(考え)が現実になるからです。
どのような気持ち(思い)で行動するかが大切で、慈善事業であるならば尚更、心の持ち方が大切かと思います。ゆえに楽しく行うことで、より効果的な結果となると思います。
救命士や消防士、医師、看護師も現場では人命救助を最優先して行動されていると思いますし、当然のことでしょう。しかし、その仕事を志ざした思いは、純粋に人の為にと思われたのではないでしょうか。そして人を助けられた時、助かった時は、素直に喜び、それは楽しみになるのではないでしょうか。
善行を楽しみと捉える事は悪意ではありません。
悪ではありません。
困っている人が困らなくなって
喜んでくれるから
嬉しくて楽しいんですよね。
ゴミが無くなって環境が良くなって
それを喜んでくれる人がいるから
嬉しくて楽しいんですよね。
それは
困っている人を見て
楽しんでいるわけじゃないから
ゴミが散らかっているのを見て
喜んでいるわけじゃないから
全然違いますよ。
善行を楽しむのは悪なんかじゃないですよ。
大丈夫ですよ。
それでも苦楽を問わずに只管に行う善行こそが浄行です。
人を助けるのに苦も楽も問わなくていいのです。ただ、やれる人となる。サッと。さらりと。スマートに。私の尊敬する僧侶たちは全身が救済活動体です。私もそんな風になりたいと思い精進中ですが、やればやるほど助けの効果、善玉菌の効果が世の中に広がるので変な屁理屈で10分フリーズするならその中の1秒でも善行を積むべし、積むべし。
人は人を助ける、お役に立つことに喜びを感じるということがある。それは快楽とは違うもの。混同しないことです。その人も言わんとするポイントが上手に伝わらなかったのでしょうが、善行に比較もありませんし、あなたが助けられる人はあなたが助ければいいだけ✨
目の前で困っている人を助ける、救う、サポートするのに良いも悪いもない。ただ、そこに助けの一行、浄行、清浄の行が行なわれるだけ。あとくされ無しでよいのです。善行、浄行、善玉菌活動があればあるほど世の中は良くなって人のMAD,ダーク,ネガティブな意識が浄化されます。そのぐらい世にも良いことなのですから大いにやってください。
ただし事務的にならず、淡々と。
反対に淡々と悪行をしている人を見てください。人間のKUZ〇と言わざるを得ないでしょう。要らんのです。そんな人が悲しむ苦しむような行いは。
じゃぁ「売名行為だァ、イイ恰好すんな」とか言ってくる何もしない人たちも何でしょう。かえって善行の足を引っ張るだけでしょう。要らんのです。そんなツッコミは。笑
日本人は良いことやるのにも躊躇ったりしますが、じゃぁ一体いつになったらその人たちは善行、浄行を行うのか。一生やらないまま。口先だけの人間ばかりでしょう。実は彼らも迷っているレベルなのです。相手にする必要はありません。むしろ売名でもいいからいいことをする勢いで無問題。
アンパンマンは君さ~♪という歌がありますが、アンパンマンの中の名も知られていない雑魚キャラ(雑魚キャラ言うな)は永遠にアンパンマンまかせです。永遠にお助け活動が始まりません。だから雑魚キャラなのです。( ˘ω˘ )雑魚キャラ言わない。笑
禅宗で悟った坊さんにこんな質問がありました。
Q駅でおばあちゃんがゴミとか拾っているんですけど、私がやろうとすると人の目が気になります。
Aあなたがどう思おうがゴミを一つ拾えばそこにゴミが片付いたという良い行ないがきちんと行われる。やらないよりはやんなさい。
Q(´💋`)…✨⤴
初期仏教のアビダルマでは
善行為を行うときの心は2種類あるとしています。楽しんでも苦しんでもいない、中立な心か、楽しんでいる心か、です。
善行為をするときは、その心は、善をおこなうのは当たり前だという気持ちでいるか、または、「ああ、こんな良いことをして嬉しい」と喜んでいるかのどちらかだと、初期仏教では見ています。つまり、善行為をしているはずなのに、「暑いなあ。辛いなあ」とか、「こんなにしょっちゅう誘われたら自分の時間が持てないなあ」とか、「このグループでやるのは嫌だなあ」などと嫌な気持ちが生まれたら、せっかくの善行為の中でその心の分は、ちょっとマイナスになるのです。
本当は、悪行為をするときは、最初はすごくイヤなはずです。そのうち慣れて、楽しいと勘違いするだけです。
善行為をするときは、最初は慣れていないので気恥ずかしいでしょう。しかし、楽しんでいるはずです。そのうち慣れて、善行為を中立な当たり前の心でできるようになります。でも、心の奥では喜んでいるはずです。
善行為を楽しむのは当たり前のことです。むしろ、喜んでいるなら、不純な要素がない本当の善行為だと思うくらいで良いと思います。
質問者からのお礼
皆様のありがたいお言葉ありがとうございます
心の中にあった霞が消え去り自身の楽しむという気持ちに素直になろうと決意いたしました。
誰かを笑顔にするのが楽しいのであり
その事を踏まえて今後も活動したいと思います
ありがとうございます