「生きる意味」は意味があるのか
「生きる意味を探そう」などといった啓発がよくなされていますが、そうやって見つけた生きる目的には何の意味があるのでしょうか。
いずれ無くなるであろう地球(現世)で、どうやっても百余年で死んでしまう私たちが、「生きる意味」をもって行動したとしても大局的には意味のないことだと思ってしまいます。
小さい頃、自分は歴史に名を残す偉業を成し遂げたいと思っていました。しかし年を重ねるにつれ、そんな社会貢献ができたとして何になるのかを強く考えるようになりました。偉大な結果を残したとしても、自分が死んだらその後の世界を見ることはできない(自分の功績の影響は認知できない)し、世界が終われば無に帰します。「生きる意味」と思っていたものの意味がなくなるように感じてしまいます。
これは「そんな偉業は成し遂げられない」という諦観がそうさせている面もあるとは思いますが、「自分が起こした行動が現在、そして死後の未来に影響を与えたとして、だから何になるのか」を強く考えていることに変わりはないです。
こう考えることで、生きる意味も、それを探すことも無意味に思えてしまっています。
生きる上で苦痛が耐えないこともこの考えを助長しています。なぜ人は苦しみがある中でも生き、この社会で何かを残そうとし、命のバトンを繋いでいくのでしょうか。また、何かを残そうというモチベーションもなく日々を生きている人々は、どんな「生きる意味」をもって生きているのでしょうか。
私自身は、生きる上で生じる苦痛を上回る「生きる意味」を未だ見つけられていませんし、「生きる意味」を見つけるために努力することも億劫で、苦しいのでしたくなくなっています。こんな思いを抱きながら生きるより、すっと消えてしまえた方が楽なのではないか、という考えすら頭に浮かび、数か月離れないので、ここに思いの丈を書かせていただきました。
とりとめのない話になってしまいましたが、よければこのことに関する仏教に基づいたお話をお聞かせください。よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
逆風にあってこそ、自分の姿に気がつける
こんにちは。
まず、「なぜ人は」という抽象的な一般論は、思考のとめどない拡散になるのでしないほうが宜しいと思います。
また、「何かを残そうというモチベーションもなく日々を生きている人々」というのは、非常に主観的です。他者をそう決めつけるのは早計である可能性が高く、そもそも他者の人生や幸福を問えるのは他者自身であり、あなたではありません。
この意味で、一般論的問い、自己が担える範疇を超えた問いは置いておきましょう。
これは、「生きる意味」についての問い全般に共通するのですが、「生きる意味」を問う時は多くの場合、自分が苦しい時、上手く行っていない時です。表面的には普通に暮らしているようにみえるけれども、内心に孤独や苦悩を抱える時に「生きる意味」を問いたくなります。
ハッピーで満たされている人は、敢えて「生きる意味」を問いません。
少なくとも、この質問欄でそういった背景で「生きる意味」を問うたケース自体を見たことがありません。
あなたは、「生きる上で苦痛が耐えない」と書いています。
その具体的な内容は、人間関係なのか、経済的なことなのかはわかりません。
ただ、あなたが今「生きる意味」について悩んでいるということは、文面にはない根本的な悩みをこそ向き合うべきではないでしょうか。
あなたは、「小さい頃」に「歴史に名を残す偉業」、「社会貢献」をしたいと思っていたのですね。しかし、それが長じるに従って「そんな偉業は成し遂げられない」という「諦観」が芽生えた。これは自分自身への失望でしょう。ハードルを高く上げて、その理想通りの自分になれなかった。理想どおりに成れる見込みがないから、言い換えれば自尊心を失ったから「生きる意味」がない、と考えているのではないでしょうか。
あなたが、もし「歴史に名を残す偉業」を成し遂げていたなら、自分自身を問うことはなかったかも知れない。順風の人生にあっては、自分に目が行かないものです。
しかし、あなたは今自分自身と向き合う機会を得た。
逆風にあってこそ、自分の姿に気がつけるのです
自分という人間を、自尊心の満足という観点だけで見ていませんか。
人と心を通じあわせたり、愛しあったりする喜び。
美しい風景を目にする、言葉にならない感動。
楽しい音楽に、心を躍らせる。
もっと人生には多面的な「生きる意味」があります(字数制限)
生きる事自体に意味あり
拝
生きる事自体に意味はあっても
生きる意味を求める事自体はどこまでも空虚なものです
今ここで息をして数多の汗と命に生かされているのが人間
意味を感じないのは今の生き方に喜びがないからです
誰かの為になった喜び
自分が成長した喜び
それらは貴方の生きる喜びになる
子供の時はそれをよくわかってらっしゃったのに、今の貴方は諦めてしまっているように受け取りました
社会的価値を自身に求めなくなった
あなたが諦観と呼ばれているものは
これらの喜びを求めることを単に手放してしまっている事と思います
苦しみは何をしてようが、必ず付き纏います
しかし、それらの喜びを求め生きるのであれば必ず苦しみの先に喜びがあります
なにもしなければ
ただ、空虚な考えや妄想の苦しみに囚われますが、求める時に生まれる苦しみや失敗の先には必ず
諦めなければ貴方自身が求めた自身の姿があります
全て原因があって結果があるのです
自分で良い原因を作るから
良い結果がある
探すべきは生きる意味では無く
次のアクションです
今感じる苦しみは
何もしなければ有用感を得られない事を誰よりも自身が感じ取られている焦りの証
色んな言い訳をして
つまらない逃げ道を作らない事です
貴方の可能性は
他人とそんなに差はありません
自分の考え方と行動次第で
なんでもできるのです
それが歴史に名を残す事である必要はありません
貴方や貴方の周りの人を喜ばせる事ができたら
もうそれだけで十分意味に溢れているのです
合掌
生きようとする者が生き残っている
ある惑星に生命が誕生したとして、その生命に「生きたい派」と「生きたくない派」がいたとしたら、「生きたくない派」が先に死に絶えるでしょう。
私達の祖先はたまたま「生きたい派」だっただけかもしれませんね。
「生きたくない派」がすぐに死に絶えると仮定するなら、いつの時代も「生きたい派」が多数派になります。
しかし、生きることが苦しみであるのは真理。
「生きたい派」が苦しみに耐えて生きるためには、たとえば「生きる意味」「生きがい」などの甘い蜜が必要なのです。
また、生きる意味をみつけられた人は、苦しみながらも人生をそれなりに楽しめます。
だから、どうせ生きるなら楽しく生きたいという、その程度のことではないでしょうか。
生きる意味を無理矢理みつける必要はありません。
死ぬまで生きれば良いだけです。
あなたにいつか平安なる滅びが訪れますように、お祈り申し上げます。
意味や価値や理由というものは
まくのうちさま
意味や価値、理由などは、因縁次第なるものであり、また、それぞれ人と同じくなる(ニアリーイコールはあっても)ということはありえないと仏教では考えます。
このことは以前の拙回答ともかぶりますが、例えば、もともと私たちは、一つのモノを見ても、誰もが同じようにそのモノ(の意味や価値や理由も含めて)を見ているとは限らないのであります。
一つの物事でも、立場に応じて見方、捉え方が変わってしまう例えとして、仏教では「一水四見」という言葉がございます。
私たち人間にとっては「水」であっても、天人にとっては宝石、魚にとっては住処、餓鬼にとっては火と、それぞれで捉え方が異なってしまっているという例えです。
更に、仏教における思想として重要な一つである唯識的に考えるならば、この世界の顕れの捉え方の複雑さについて、より知れることになります。
一つのモノを見ても、実は、それぞれ、はるか昔の過去世からの心(の阿頼耶識)に薫習された習気(薫りが染み付いたようにそのモノコトを捉える習性)が、そのモノを捉えているという複雑な構造を知ることができます。
要は、誰一人として、誰かと同じように、そのモノ・コト(の意味や価値や理由も含めて)を捉えていることはもともとあり得ないということでもあります。
阿頼耶識のありようが、当然に皆それぞれ指紋の如くに異なっているからであります。あるいは、脳のシワが皆それぞれ異なっているからと言う方がより分かりやすいでしょうか。また関心があれば、是非、唯識について学ばれてみて下さい。
ですから、そう捉えている人それぞれでそれぞれにおける意味や価値、理由であり、また、それも色々な因縁次第において変わりゆく無常なるものとなります。言ってみれば、昨日はAと捉えていた意味も、実は翌日には、捉えている自分の心身も周りの環境も変わっていくものですから、微妙に異なり、A+aとなっている、更に翌々日はA+ab・・A+abcみたいに・・年数が経てば子供の頃と大人の頃との価値、意味、内容の捉え方の違いとなり、歴然とするでしょうが、刻々一刻と変わっていっているものなのであります。
とにかく、全く無いわけではないのですが、それぞれの因縁次第であり、善き因縁を集めることに努めれば、もちろん、善き意味や価値、理由も見出し得るということになります。
川口英俊 合掌