死ぬこともできないです。
希死念慮に苛まれています。
私は恵まれていると思います。
両親、兄弟は健在で仲も良く
友人にも恵まれており
楽しいと思える日も過ごせています。
ですが、数年前から双極性障害と言われました。
元々、根暗だったのを「こんな考え方良くない」とポジティブに振る舞ってきましたが最近では、ネガティブに襲われます。
親友に裏切られたこと
職場でいじめられたこと
そこから人間不信になったこと
お金もなくやりたいこともできず
生きてる意味ってあるのだろうか
と考えても無駄なことを延々と悩んでしまいます。
そう過ごしているうちに
「死にたい」
と思う日が増えてきました。
ですが
「こんなに恵まれてるのに死ぬの?」
「死んで解決するの?」
「周りの人に迷惑かけるし、何より悲しむよ?」
「自分より辛い人はたくさんいるんだよ」
「自意識過剰、悲劇のヒロイン気取り」
と自責する思いと
「ツラい、消えてしまいたい」
「このまま引きこもって誰とも関わらずに朽ち果てたい」
「何も考えたくない、死んでしまいたい」
と自殺願望が
頭で渦巻いて、おかしくなってしまいそうです。
両親・兄弟には言えていませんが
友人は私の精神のことをある程度理解してくれています。
本当に恵まれてると思います。
みんな「大丈夫だよ」と笑ってくれます。
ここでお坊様の皆さまに相談しても、きっと「生きなさい」と言ってくださるのでしょう。
(仮に「死になさい」と言われたとて、動機がなければ死ぬ勇気はありません。)
その言葉はとても嬉しい、温かいのですが
生きるのは苦しい、死ぬのは怖い。
その事実はいつも変わらず脳内を蝕むのです。どんな言葉を頂いても、このとても苦しくて怖い、生きながら死んでいるような感覚が消えないのです。
私はどうすればいいか分からない。
死ぬ決定打がないので死ぬことはできないままに、日々希死念慮に苛まれます。
生きることは楽しいこともありますが
基本、私にとって生きるとは苦しいことなのです。
私はどうすれば救われますか。
生きるか、死ぬか
どちらを選べば幸せなのですか。
死ぬことに理由があれば死んでしまうことも許されるのですか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ちょっとした幸せを感じたくて、明日を越えていく。
毎日が、葛藤だよね。頭の中も心も、グルグルとあなたを迷わせているのではないですかね。
生きるか、死ぬか。
答えを出そうとしてしまう。
曖昧でいるのが、しんどくなっているのですよね。
双極性の苦しいところですよね。
本当は、それらから解放されて、理解ある仲間と一緒に、前を向きたいのにねぇ〜自分に対しても嫌になっちゃうよね。
思うようにいかないから、生きることって苦しくなるけれど。そのストレスを、何かで誤魔化したり、どこかで発散させたり、誰かに伝えて聞いてもらったり受け止めてもらったり、大丈夫だと支えてもらったり背中を押してもらったり。みんな、そうしながら、生きているのだと思うわ。
生きなさいと、偉そうなことを私は言わないし、逃げ出したいことがあって当たり前だよねって思う。生きながら死んでいるような感覚って、本当に怖いわね。抜け出したくなるよね、もう解放されたいよね。
だから、周りをもっと頼りませんか。大事な人だから、心配もしたいのよ。頼ってくれたらいいよって、きっと思っているわ。一人は怖い。だから繋がっていてねって、手を伸ばしておきましょうよ。
楽しいことばかりじゃないけれど、ちょっとした幸せを感じたくて、明日を越えていく。
そんな日暮らしでもいいのではないかしら。
ハスノハでも、毎回、あなたの気持ちを聞かせてくださればいいわ。どんなネガティブも、一緒に頷いてあげたい。しんどい時に、辛い時に、一緒にそばにいてくれる人は、頼ってもいい人なんだよ。みんな、誰かを支え.支えられしながら、毎日を過ごしているのだもの。
仏道を学び、実際に歩んで下さい…
【希死念慮】の言葉には希(のぞ)む、念(おも)う、慮(おもんぱか)る と自分の思い、また考えを意味する文字が並びます。
だからこそ このとても恐ろしく、実際に自らの命を絶ってしまうほどの「希死念慮」を無くすためには、「自らの思い、考え」から離れることが大切です。
その実践として自ら修行をして心を整え、鍛えて、その思いから離れようとするのが「自力聖道」の教えです。
また、その【我の内から溢れ出す思いを自らではどうにも出来ない者に対して〈その思いを私に預けなさい、手放しなさい、私に任せなさい〉とおっしゃる阿弥陀という仏に委ねていく】教えが「浄土教」(浄土真宗)の教えです。
あなたにはそれを選ぶ権利があります。どうぞ自らの思いから解放される道を歩まれますことを…真実なる人生を歩まれますことを、心より御念じ申し上げます。
『生きるか、死ぬか どちらを選べば幸せなのですか』…幸せという自らの感情を人に尋ねますか。人に委ねますか。他人のその答えに納得出来ますか。納得した方を選びますか。ならば私が申し上げます…「生きる方が幸せです」と。この回答に納得なされましたか…。
『死ぬことに理由があれば死んでしまうことも許されるのですか』の問いも同じです。その答えは自分で出すべきです。
もちろん、この上なく重い問いですから、答えを軽はずみに出してはなりません。その答えを仏法にこそ求めて下さい。真剣に問い、また学んで下さい。
多分、その答えを出すのに一生掛かるでしょう…いえ、一生を掛けても得られないかも知れません。
だから、その答えを仏様に問い尋ねましょう。尋ね続けてまいりましょう。
あなたには今お時間があるようです…といっても、人生の時間は有限。無為に過ごしてはなりません。
だからこそ仏教を学んで下さい。その学びは「決して」無駄にはなりません。いえ人生を歩む上で、人生を充実させ、実りあるものにする為に必須の学びです。
安心して仏道を歩んで下さい。
私達(仏法を喜び、学ぶ者)の仲間になって下さい…。
恵まれて幸せなのに自殺願望への処方箋
堪忍袋さま
つい先程に回答した内容と被ってしまうのですが・・すみません。
最近、まっいいかな、これぐらいでよいかな、このへんで終わらせとこかな・・と、一見、恵まれているにも関わらず(逆に恵まれていて幸せだと思っているうちに終わらせたい)、そんな感じの自殺願望がここのところ多いように思います。
もちろん、生きることがしんどくてつらい、苦しいのは誰も同じなのですが、これ以上、しんどくなりたくない、つらくなりたくない、苦しくなりたくないということもどこか絡んでいるようにも思えます。
しかし、気休めに、これからきっといいことがあるよ、もっと幸せになれるよ、などとかも、そう安易には言えないですし、まず信じてももらえないでしょう。また、誰も保証できないことでもありますから。
では、仏教的にはどう答えるのかとなりますが、
やはり、業(カルマ)と輪廻について理解していただかなければならないところとなります。
今の生を安易に終えたとしても、(過去世から、もちろん今世の)業(カルマ)によって、次の行き先、生まれ先が決まることになるため、当然にその業(カルマ)の状態次第では、また人として同じように苦しみ続けることになってしまう、もしくは、人よりも悪い境涯に生まれてしまいより苦しんでしまうことも。もちろん、人より善い境涯、天や浄土に生まれられる場合もありますが、そのためには、それなりの業(カルマ)の善い状態が必要なものとなります。
ですから、仏教では、できるだけ善い境涯へと向かえるようにとして、この生もできる限り有効に活かして、できれば、確かなる仏道を歩み、業(カルマ)を清らかに調える、智慧と福徳の資糧を積むということが求められるところとなるのであります。
是非、仏教についてこの機会から学ばれて頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌