hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

主人が怖い

回答数回答 2
有り難し有り難し 70

主人はキレやすく、キレると怒鳴りだし興奮がおさまるまで手がつけられなくなります。
私は争いごとが嫌いな平和主義なので、優しく話したり、何かを伝えなくてはいけない時はオブラートに包み気分を害さないよう気をつけています。
主人が一方的に機嫌が悪くなり喧嘩を売られても、「そうだね、あなたの考えもただしいわね。でも私はこう思うわ。
私もわるかったわ。ごめんね。仲直りしましょう。」と腑に落ちなくても誤ってしまいます。
すると、ますます調子にのり、テメェは仲直りしたくても、俺は気がおさまらないんだ!テメェは何様だ!!と罵倒されます。
あまりの恐怖にカラダが震え、どもりだしてしまいます。
腰が抜けてしまったこともあります。
毎日主人の顔色をみて生活をしています。子供も小さいので育児もかなりハードです。
精神的につかれてしまいました。
私が弱いだけでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

子供を連れて

それはひどい家庭内暴力ですね。貴方にもお子さんにもそのまま我慢できるという限度を超えているように文面からは思えます。

それでも幸福ですか?

実家に帰ることが出来れば帰る。
もしくは駆け込み保護を求める。法的な保護をしてもらう方法があるのではないでしょうか。
男運が悪いとしか言いようがありませんね。
あなたが一時的に姿を消したら、気づいて反省して穏やかな男に戻ると思えますか。
多分無理でしょう。
感情のコントロールが出来ない人は、見放すべきです。貴方が弱いと反省したり我慢する問題ではないと思います。身体も心も潰されてしまうでしょう。
あなたへの虐待はそのまま幼児への虐待だと思います。然るべき場に相談されることをお勧めします。

{{count}}
有り難し
おきもち

楽健法と楽健寺の天然酵母パンを普及しはじめてかれこれ半世紀になります。楽健法も楽健寺の天然酵母パンもマスコミによく取り上げられています。

第三者を交えて 上手に別れる

そりゃひどい。DVは犯罪です。
ご実家にまず真実を話す。
離婚できるまで、ご実家に守ってもらいましょう。
事情が事情ゆえに認めてくれるでしょう。
相手のご実家にも詫びつつ、話すことです。(相手の家族が自分の子供を守ろうとしたら悪)
実家からも相手に言ってもらうことです。
今後はご実家の両親を交えて会話をしましょう。
ICレコーダーを24時間ONの状態で持ち歩いていて証拠も残しておくようにしてください。
ぶっちゃけDV人間は変わらんです。妻に逃げられてアタマ冷やすくらいの方が相手にとっても良いでしょう。
少なくともあなたは変えられない。
子どもの未来のためにすぐにでも別れた方がイイでしょう。
密室だからやるのです。人の目がないからウチの中で暴力を振るうのです。
離婚できる準備を完全にととのえてからにいたしましょう。
徐々にあなたと子供の荷物をまとめて、旦那の仕事中に実家に引っ越しする。
離婚に応じなければ調停や裁判離婚。暴力の振えない所であれば、会話はできます。
どんな理由であろうと、暴力や暴圧的な態度は悪です。
感情的になる人間はコミュニケーションがとれません。
遠くて構わなければ、お寺で相談でもいいですよ。
昨日も夫婦で坐禅に来られていた方もあります。
変わらなければいけないのは相手です。
あなたも相手をイラつかせる原因となるところもあると思います。
あなたの心情としては相手をもう怨んだり憎まず、憐れみで接すること。
子供と接するならば公衆の面前でのみ。自分とお子さんの身を第一に考えてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

煩悩スッキリコラムまとめ