過去の過ちで地獄に行くのか、
私は、小学校の頃から生き物が大好きでした。
そして虫など、家に持ち帰って飼っていたほどです。ですが世話が出来ず何匹か殺してしまった過去があります。その他にも嘘、悪口、綺語、偸盗等を犯していますが、、。
元々は、亀や、金魚なども飼っていました。そして世話はしていたものの、途中から親が掃除等をやってくれたりしてくれていました。
ですが、金魚は親が水槽を割ってしまい、死んでしまいました。。亀に至っては水槽を掃除していなかった事で亀を死なせてしまいました。なのでこれからは殺生をせず真面目に生きていこうと思いましたが。それも虚しく虫達をを殺さないようにと、気おつけていても僕のびびった性格や、不注意なので、親に頼んで私も一緒に殺す羽目になってしまったりします。逃がしてあげようにも怒られるので逃がせませんでした。この時ばかりは本当に泣きそうになります。今まで気おつけていた事がこんなにも儚く打ち砕かれるとは思いもしませんでした。こんな事をしていて僕には救いがあるのでしょうか。
人間は生き物を殺しては生きては行けません。それに僕が悩んでいる事を相談したら。「それなら肉食わなければよくね?」「偽善者やめてもらっていいですか?」等の言葉が飛び交ってるように聞こえます。本当にもうしんどいですそれに小学生、中学生、高校生の時に盗みを働いています。
ですが高校ぐらいに入ってからぐらいになってやり始めたんですが。昔から仏様や神様が好きで 御朱印巡り等をしています。気休め程度だとは思いますが、自分のやってしまった行いを戒めながら巡ってます。御朱印で本当に極楽浄土にいけるなら僕は何も残すことはありません。
今は20ですが色んな人を助けられるような人でありたいです。
性格は優しい子とは言われます。 ただ、幼い頃に犯した殺生が何故か頭から離れません。それ以外にも沢山罪を犯しました ただ、神仏に対しては熱心に信仰しております。
自分のエゴを他人に押し付けてしまうこと 自分がいい子であればいいのかの迷い
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
今、そしてこれからをどう生きるかです
おはようございます!
私もつい最近、愛する猫を自分の不慮の事故で亡くしました。ひどく落ち込みましたが、葬儀を行い、戒名をつけお寺の境内にて供養してようやくおちつきました。
さて、「罪」との付き合い方ですが
私達曹洞宗には『修証義』という経典がありその第二章は『懺悔滅罪』という章です。「罪を悔いて反省することによって、罪が消滅して清らかになる」と説いておられます。
「罪」とは刑法に該当するような罪ではなく、「知らず知らずのうちに小さな虫を踏み殺してしてしまった殺生、あるいは日々の煩悩や欲そのもの」を罪の対象として仏教は考えます。
それら過去の過ちを反省し「今後同じような過ちを犯さないと誓うと同時に、過ちの根本にある欲や煩悩から離れること」が本当の懺悔、悔い改めるという事と説いています。
仏の前で自分の罪を素直に懺悔することができれば、罪の事実は消えずとも心は浄らかになります。
御朱印集めでお寺を回られ、心から懺悔されてるのであれば仏様はしっかりと見ておられます。
最後に、偽善者でない人はいません。偽善者どころか、人はみな努力してようやく凡夫です。しかしお釈迦様、そのお弟子、今日まで続く祖師方みな生まれは凡夫でした。
一日一日を精一杯に生き、生き続ける事が食事で頂いた命を「生かす」という事です。もっとも、命を背負う必要はないです。一日とは借りて返すことです。一日精一杯に生き、無事に終えることが「返す」ということです。
業について考える
yuuさま
https://hasunoha.jp/questions/53869
最近、こういったように虫の命についてまで思いを寄せて頂ける方のご質問が増えて参りましたことは、本当に有り難いことであると存じます。
まあ、御朱印における仏縁も大事ではありますが、何よりも、仏教の基本は、悪い行いをなさずに、善い行いに努め励みて、心(業・カルマ)を清らかに調えていくことが大切となります。
何より次の行き先は、自分自身の(過去世からも引き継いである)業次第によるところが大となります。いかに業を清らかに調えていくべきか。
それを集約していけば智慧と福徳の二つの徳目となりますが、具体的には六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の実践となります。そのための仏縁のあり方についても考えて参りたいものとなります。
また、虫のことなどについてはちょうど拙法話において扱わせて頂いている内容がございますので、是非ご参考なさって下さいませ。
拙法話「追善供養」
川口英俊 合掌
丁寧に生きる
生き物の命の重さは昆虫でも、植物でも、人間でも、その他の動物でも微生物でも変わりありません。
しかし、そうした命を頂かないと生きていけないのが生物です。
殺生は日々しているわけです。しかしできるだけその殺生をしないで生きていきたいという、人としての思いがある。だから殺してしまった時に、心に残る罪悪感がある。食事を残すこと、ペットを死なせてしまうこと、魚釣りで無駄に殺してしまうことなど、そうではないでしょうか。
ですから、あなたの後悔の気持ちは次にどう生きていくかにつながります。無駄に殺さない。誤って小さな命を殺してしまった時には、ごめんなさいと手を合わせる。そうした行為は丁寧に生きるということにもつながります。
質問者からのお礼
返事がかなり遅れてしまいましたが、とてもいいご回答ありがとうございました!。どんなけ自分と見つめられるかなど、色々思う事はありました。