“人や動物”、“虫”の命の重さの違い
うつ病患者です。命の重みが理解できません。
蚊やゴキブリは殺していいのに人や動物の命が大切なのはなぜですか?
特別誰かを害したい訳ではありませんが虫にはなくて
自分は大切と言われる命の重みの違いが理解できません。
同じ命であるなら等しく大切にするべきですよね。
正直祖父母が亡くなった今、母と飼い猫はいなくなったら寂しいと思いますが
他の人間(自分も含めて)に対しては別にそう心が動かないと思います。
だからどうこうというわけではありませんが無関心という言葉がピッタリです。
害したくもないが大切とも思えない、いつ終わるとしてもなんともない
自分には関係ない対岸にあるものという認識です。
映画や本を読んで感動して泣くことはあるので、感情がない訳ではありません。
それでも命が大切と言われるとやっぱりよくわからないなと思います。
虫の命は奪っていいのに、それに反して大切にされる自分や他人や動物の命。
この違いは一体どこにあるのでしょうか?そもそも命はなぜ大切なのですか?
この質問にお坊さんならどう思われるかなと質問させていただきました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
命を殺し頂くのが生きもの
私たちは命を奪わずして生きていけません。普段食べているものは全て命。
「いただきます」の言葉も命を大切にしている言葉ではないでしょうか。
考えの上の理想論では命は奪わない方がいいと思うのでしょう。変な話、多くの人は野菜を収穫したとしても、牛や豚、鳥を屠殺することを嫌います。血が出るからなのか、理屈ではないものがあるのでしょう。
本能的なものなのでしょう。
虫に対して例えば、蚊が手に止まれば無条件に良し悪し考える前に気づいたら叩いているのではないですか。殺すなんて考えてない。
大切なことは、命を無駄にしないようにしましょう。ということです。できるだけ殺さないようにしましょう。ということです。
どの生き物も大きな意味でいのちの働きを頂かない限り生きていけないのです。水もいのち、養分もいのち、空気もいのち。
有難し。
自分が感じている情の違い
生きているということに違いはない
その命の重みに違いはない
ということは何となく分かりますね。
でも
それは客観的においてであって
主観的には違ってきます。
やはり自分に近しい命は大切で
そうでない命には無頓着です。
「自分には関係ない対岸にあるものという認識」は
誰もが持っている感覚です。
踏みつぶそうが気にもならないアリも
飼育し始めれば
情が湧き
愛おしくなるものです。
私は死にたくありません。
だから自分を大切にするし
周りからも大切にしてほしいです。
誰もがそう思うでしょうから
私も周囲の人や命を大切にするように気を配ります。
同じ部分と違う部分
この問題はよく問われます。答えは、釈尊の教えの中では明瞭です。
たぶん、あなたの問いは以下の二つに分けられそうです。
①命の重さに差があるの?あるならどうして?
②(それなのに)命は等しく大切なの?大切ならどうして?
①の答え:
微妙な違いですが、釈尊は、「命の重さに差がある」とは言いません。「生き物の命を奪う悪業の重さに差がある」という言い方をします。(この微妙な違いは、②の命は等しく大切?につながります。)
蚊の命を奪う悪業よりも象の命を奪う方が、象の命よりも人間の命を奪う方が、悪業が重くなります。同じ人間でも、極悪人の命を奪うよりは徳の高い人の命を奪う方が、悪業が重くなります。ドライに言えば、世の中におけるその生命の「価値」の高さによって、それを奪う対価・悪業に強弱が生じるのです。
②の答え:
そういう不平等?を知ったうえで、仏教では、「蚊なら十匹まで殺してもいい。象は二頭まで。悪人は一人だけ。徳の高い人は殺してはいけない」などとは言いません。「生命ならば蚊一匹でも等しく大切にすべし」と言います。理由は、生命が等しく尊いからではありません。生命が、誰でも等しく、「死にたくない、生きたい」と、必死に自分を守っているからです。生存権を奪うという、生命として根本的な本能的な死にたくないという気持ちを潰すという点で、殺す側の気持ちが、ものすごくどす黒くなっているのです。
この殺すという業は、どんな小さなものでも決して軽く見てはいけません。蚊を殺すのに慣れたら、殺虫剤で樹の虫を全滅させ、うるさいスズメを網で一網打尽にし、騒がしい近所の子供をけ飛ばすほどに悪業がとめどなく「発展」するでしょう。
そして、他者の生存権を平気で犯す心の人は、自分も、生存権を脅かされるでしょう。自分の命が軽んじられるとき、はじめて、自分は死にたくない、どうしてこんな目に遭うのか、と本能的に自分を守りたくなるのですが、そのとき、周りに文句を言う権利もないことに気づきません。なんだか自分だけ理不尽な目に遭っていると思い、悔しがりながら死んでいかなければいけません。
生命についてはそういう法則ですよ、と、仏教では言っています。それゆえ、自分の身は守りながら、自分だけという気持ちではなく、すべての生命の平安を願いながら生きる方が、結局、自分も安心です、と言います。
もちろん、仏教では、命を平等に見ます
ねこさま
もちろん、仏教では、命を平等に見ます。
ゴキブリであろうが、人であろうが、鹿であろうが。命の重さに違いはありません。
共に苦しむ衆生としても平等です。
人間は法律や自分たちの価値観に基づき命に優劣を作ってしまいますが。
仏教では、人を殺しても、アリを殺しても、同じ悪業は悪業となります。
もちろん、その悪業の動機の部分による相違はあります。故意や過失の有無など。(仏教的には無明・煩悩の度合いなど)
しかし、当然に、全くそんな悪業を犯さずに過ごせる者もおりません。綺麗事だけでは生きていけないのでもあります。
頂く命、やむなく奪う命、そのような中でどう懺悔、慚愧、供養して、「業」の問題に取り組んでいくべきであるのか、そこは是非、仏教を学び修していって頂けましたら有り難くに存じます。
ちょうど、このようなテーマについても扱った拙法話がございます。是非ご参考下さいませ。
拙法話「追善供養」
川口英俊 合掌