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恵まれているのに生きる意味を探してしまう

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40代半ばで、子供がいます。
シングルマザーで育てており、子供も少し手が離れています。
彼氏がいて交際も順調です。健康にも、職場にも、家族にも、経済的にも恵まれていると思っています。

20代の時は勉強と仕事、30代は子育てと仕事との両立で時間に追われながらも目標があり充実した日々だったように思います。

それが40代半ばになり、時間ができるようになり、ただ呼吸するために生きていくのかな、日々を消化するために生きていくのかなと考え、生きているのに虚しさを感じてしまいます。生きる目標がないというか、惰性で生きているような気がするのです。

少し前に仕事で大変なことがあり、仕事に自信をなくしたことも影響しているのかもしれません。

恵まれているのに満足しない、小さな幸せのありがたさを心から感じられない、自分は強欲な人間なんじゃないか。強欲だから生きる目標を求めているのではないかとも思います。

この虚しい気持ちから解放されたいです。何か生きるヒントをもらえないでしょうか。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いいチャンス

幸せを、他に求めるからむなしくなるのです。
他というのは、今生きている様子の他です。
つまり、自分自身の様子と向き合ってないからむなしく感じるのです。

人は、時間で言えば「今」場所で言えば体のある「ここ」でしか生きられません。それなのに目の前にないものを欲っしたり、未来の不安を考えたり、過去を後悔してみたり、真の前にない生活を妄想したりしているのではないでしょうか。

事実は今ここ、その時っきり他にないのです。その事実には何不足ないはずです。完璧な事実が目の前にあるのに、理想や、妄想を膨らませ比較したりするから物足りないような気がするのです。

事実と向き合い自分自身を知る道を歩むことが幸せへの道です。お釈迦さまと同じ仏道です。縁あってこのサイトに来たわけです。是非その虚しさとしっかり向き合い、自分自身を見極めてください。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

仏教では天上界を最上としない理由

人間世界には六道、六界といわれる精神世界があります。
これは死後のことというより、まさにこの世の生きた現実。
天上界、人間界、修羅界、餓鬼界、畜生界、地獄界。
◭天上界とはあなたがいる世界。恵まれた世界。経済的にも精神的にも恵まれている様子です。ですが、どこか満たされがない。古代においても王族になっても国と国で争いあってきたのが人間ですから人はお金、物質、適切ではない主義思想では本当は幸せに離れないということです。
◭人間界とは優劣、勝敗、損得、善悪、美醜、正誤、正邪、清濁、など比較の世界。日本でも日々テレビをつければ人間界の博覧会。
◭修羅界とは争い、ケンカ、疑心暗鬼の世界。憎しみ、憎悪、ヘイト、対立の世界です。世界は保守と改革派、先住民と移住民、主義思想の違い、価値観の違いでどこの国も政党も夫婦間でも争いが絶えません。
◭餓鬼界とはエゴイスト、自己中心的な自分だけよければいいという周りのと関係性が見えない人たち。
◭畜生界とはとても人間とは言えないようなひどい犯罪やテロ、今も世界で起こっているような虐殺、非道な人間性。
◭地獄界。天上人間界羅餓鬼畜生界の犠牲者。苦しみの絶えない世界といってもよいでしょう。
この六道の無限ループ、あるいは六道のあっちこっちへ行ったり来たりの繰り返しをする輪廻の生活がおおよそすべての人間ですから、そこから一歩👣歩みを進めなさい🐾と呼び掛けているのが仏教の教えです。それを象徴したのがお釈迦様が生まれてすぐに「7歩、歩まれた」という故事の象徴するものであり、その心を起こすことを発心や初菩提心と言います。
私もあなたと同じように一時期は恵まれていましたが、ある時は修羅界、地獄界。どうも満足がいかずに菩提心を奮い起こして手ごたえのある人生を見出すことができました。
今でも十分満たされている、他国に比べて恵まれている面もあるはずですが、それでもさらに心の豊かさ、聡明さ、やさしさ、明るさを求める志を何度も起こしてみてください。古来より多くの人たちが悟り、涅槃、仏の智慧を求めて各地を回ったのはみなあなたと同じく、心に何か満たされない気持ちがあったからのことでしょう。仏教とは「仏教」という遠くの話ではありません。人類全体が救われる万人の生老病死・四苦八苦を救い、満たされない心を満たす教えです。発心、菩提心を起こす事できっと救われるでしょう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

アドバイスくださりありがとうございます。
言葉がすっと自分の心の中に入ってきました。
仏教を勉強したくなりました。

今を見ること、私には決定的に抜けていたことです。
無いものや起こってないことをとやかく考えるのではなく、今の一瞬一瞬を感じて生きていきたいと思います。
ありがとうございます。

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