遊びで、釣りや潮干狩りをすること。
潮干狩りとか釣りとか、それを生業にしてる人が殺生をするのは当然ですが、自分が遊びでやる事への罪悪感があります。
生命の維持のために他の命を奪う事は世の理です。しかし、第一次産業に携わる方々が、自分達消費者の代わりに殺生をしてくれているのに、その仕組みを超えて、わざわざ自分が快楽を得るために殺生を行うのは、単なるエゴであり、それは捕まえた生命に対し非常に失礼なのでは?と常々感じます。
実際、潮干狩りとか釣りをしている間は楽しいのが、その考えを裏付けるようで辛いです。
しかし、捕まえてしまった以上は、なるべく苦しまないように殺して、美味しく食べようと思います。それが、無駄な殺生をしてしまった自分が出来るせめてもの償いなのではないかと思います。
やはり、潮干狩りや釣りは悪いことなのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたが食べられるエネルギーならどんな使われ方をされたいか
ウチで飼っている(厳密にはただ境内に存在している)ニワトリとよばれる全身羽だらけのトサカと肉だれというぷにぷにしたものが顔についた朝からコケコッコーと100デシベル以上の声で鳴くコラーゲンたっぷりな鳥がいます。彼らは足で土を掘っては潮干狩りのように虫を喰っちょります。ウメウメ🐛🐔コケコケ
ムカデも食べます。ミミズも食べます。
そしてそんなニワトリは夜な夜な寺の森にすみ着いたアライグマがかっさらっていくのです。コケー
かわいそうに。生きたまま食われる。(T_T)苦しいだろう。痛いだろうに。そんなことを思いながらも我々は焼き鳥屋親子丼やチキンライスやケンタを食べているもんですわ。
私も釣りをしたことがありますが、針を抜くときに痛そうで苦しそうで。それ以来釣りはしなくなりました。ですが、魚を頂戴することもあります。
貝とかもかわいそうですよね。できる限り苦しまないように熱湯になってからドボンしてごめんなさいごめんなさい言いながら調理することシバシバ。
生命とはそれだけではありません。お米だって麦だって一粒一粒に一郎二郎三郎四郎と名をつければ我々は一生で一億粒以上の米を頂くことになるそうです。ごめんね、一億太郎。
ですが、人間も含めあらゆる生命が他の生命を頂戴しなければ生きていくことはできません。段ボール餃子や発泡スチロール米で生きていくことはできません。
だからこそ、この頂いた命によって生かされているこの生命の用い方、使い方、導き方こそが大事。あなたが食べられる側だったとします。鬼滅の刃のように家族を食べられて食べた鬼が「さて、次も人間どもを食い殺しにいくか。👹」というような生き方をしている人が居たら許せない気持ちになるでしょう。だったら、せめてその尊い命を頂く、仏飯を頂戴するのであれば「どう生きるか」。
それが人間性・宗教性の追求というものではないでしょうか。
私は人間のクズでどうしようもないですが、人間のクズなりに肥やしになれる生き方を探し求めています。毒であったら薬になれる生き方。刺激物であったらせめてカレーになれるぐらいの生き方があるはずです。
そういう「助け・善導」の精神。世の中の悪玉菌を浄化し得る善玉菌となるような生き方。それが仏の精神。仏の作用。人間が他の命を頂戴しこの命を継続しながらも行ずるべき人の道、仏の道はないでしょうか。では、尊い命を頂きます。
供養
ぎんりんさま
拙生、釣りに初めていきましたのが半年前になります・・
川釣りで、何も知らずにて、飲み込んだ針をどう取るのかさえもわからなかった素人でした・・
ペンチを借りて取らないといけないと知り、取るときの痛そうな魚の様子に、あぁ、、なんて可愛そうなことをしているのかと罪悪感に苛まれました・・
もちろん、頂く命、やむなく奪わなければならない命があって、私たちは生きていくことができます。
それをしっかりと理解して、感謝、供養しなければならないと存じます。
また、その釣り場には、ちゃんと魚を供養するための塚がありました。
鱒塚
https://stat.ameba.jp/user_images/20210726/15/sunyahide/85/6f/j/o1078144014977865433.jpg?caw=800
あまり気づく人はいないかもしれませんが、最後に塚の前で手を合わせて、ご真言をお唱えさせて頂きました。
また、供養につきましては、下記拙法話もご参照くださいませ。
「追善供養」
川口英俊 合掌
不殺生は悟りに近づく修行
釣りや潮干狩りは悪といえば悪ですが、私達はそのような殺生を日常的にやっています。
蚊を殺すのも悪ですが、全く殺さずにはいられないでしょう。
それでも、不殺生を志すことは、悟りに近づく効果が得られる修行になります。
また、他の生き物にとってはできるだけ殺されたくありません。
自分のためにも他者のためにも、できる範囲で不殺生を実践することは善い行いです。
釣りや潮干狩りは、辞められるなら辞めた方が良いと思いますが、辞められない場合も、日常生活の他の場面で不殺生の修行をやってみましょう。
せっかくですから
拝読させて頂きました。
あなたのそのお考えその思いはとても尊いと思います。
では仮にですが…、あなたが漁師や猟師の身の上として生きていかねばならないならどうでしょうか?
あなたが農家として生まれて畑や水田を作っていく身の上ならばいかがでしょうか?
あなたが酪農のお家に生まれて毎日牛乳を頂き、牛や豚や鳥の肉を頂く身の上だったらいかがでしょうか?
あなたが釣り堀や潮干狩り屋を営むうちに生まれて育てられたならどう思うでしょうか?
あなたが投網や釣竿を作る家に生まれ育っていったのならどう思うでしょうか?
私はお寺に生まれて仏様にお供えされるお米や麦やお魚やお肉や沢山の野菜を頂戴して成長させて頂いて大人になりました。
私は自分でお寺の子に生まれたいと思って生まれてきたという記憶はありません、坊さんの子供として育っていきたいと願って生まれてきた記憶もありません。
成人して最近になるまで当たり前だと思ってあまり考えてはいませんでした。しかし、その様に様々なもの命を頂いて成長させて頂いて今生きていることは決して当たり前ではないこと、ただただ有難いこと、本当に尊いことだと最近になって思います。
せっかくですからあなた自身もじっくりとお考えなさってみてあなたなりのお答えを見つけてみてくださいね。
質問者からのお礼
皆様、有難いお言葉ありがとうございました。
不殺生を目指す生き方と、無数の命の上に生きているからこそ、良い生き方をしなければいけないという考え方には、今後の人生の指針を頂きました。
昨日採ったハマグリが、生きようと水を吸ったり吐いたりしているのを見て、自分ではとても殺せず、親に料理して貰いましたが、非常に美味でした。
悲しさと相まって、印象的な食事になりました。