嫌な人が自分より良い会社にいる
過去、私に嫌な事をした相手が、私よりいい会社にいます。
正確にいえば、今もいるか分かりません。
何年か前、その会社の担当としてテレビに出ていた事で、彼女がその会社の人だと知ったのです。
その人は、私を虐めていた女性の友達でした。
その人から直接何かされたことは記憶にありませんが、悪口とか嫌なことは日々言われていて、好きではありませんでした。
虐めていた女性の他の友達とは和解したり、最終的には私の味方になってくれたりと割といい思い出があるのですが、その方は違く、最後まで嫌いでした。
虐めに関しては今は特になにも思ってはいないのですが、
その会社の製品を見ると時々、(あぁ、あの人がいる会社か。)と微妙な思いが湧いてきて、その製品は好きなのに買うか躊躇したり、
なんであの人があの会社にいるんだろう(羨ましいなぁ)と思ったり。
この感情は、どう向き合えばいいのでしょう?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたの気持ちにも踏ん切りがつく方法。
そうなんだね、そりゃ思い出して、憎くなるわよね。傷つけられたことは、忘れられないものね。
人にした事は、自分に必ず返ってくるものです。その相手も、その頃の相手ではなく、様々な経験を通して過去を振り返り、罪に気づき、後悔や反省もなさってきたと思いますよ、そう思いたいですよ。あなたに対しても、申し訳ない気持ちでいてくださっていたらいいですよね。反省が人を変えてくれるのですから。
そこの会社のホームページや問い合わせのメールに、それとなく書いてみてはいかがですか。テレビで拝見しましたけれど、昔いじめを受けた社員が写っており、商品にマイナスイメージがあります。とかね。
それだけでも間接的に相手に伝えたと思え、あなたの気持ちにも踏ん切りがつくのではないでしょうか。
もう置いてきてしまったよ
ハスさん、はじめまして。質問を拝読しました。
ハスさんはいじめられていた女性の友だちが自分よりいい会社にいることが気になるのですね。
ある例え話を紹介します。
ご存じの通り、修行僧は女人禁制で女性との関わりを持ってはいけないとされていました。
あるとき、師匠と2人で出かけていた修行僧は川を渡ることができずに困っている女性を見つけました。修行僧は見て見ぬ振りをして通り過ぎようとしましたが、師匠は女性を背に負ぶって川を渡しました。
何度も礼を言う女性に少し頭を下げて師匠は何ごともなかったかのように歩き始めました。
修行僧は、女性と関わりを持ってはいけないとされているにもかかわらず、師匠は女性を背に負ぶって川を渡しました。そのあとの師匠の態度に修行僧は腹が立った仕方がありません。
勢い余って修行僧は師匠を問い詰めました。「なぜあなたは女性に関わったのですか。それでは師匠の意味がありません」
すると師匠は驚いたように答えました。
「おや、お前はまだ女性のことに気を取られているのか。私は川岸にすべて置いてきてしまったよ」
ハスさんはいじめられていた女性の友だちを、修行僧のように心に持ち続けていますね。師匠のように友だちと別れた時点で置いてくればいいのではないでしょうか。
過去の感情にいつまでもこだわることを仏教では執着と説きます。執着は手放していくものです。
ハスさんが執着を手放していくことができますよう祈念しております。
合掌
追伸
もう忘れましょう、という意味です。
過去ではなく、未来に生きたいものです。
質問者からのお礼
中村太釈様
ありがとうございます。
すみません、執着とは悪い意味だと思うのですが、これは相手ではなく、執着している私が悪いのか?と捉えてもやもやしてしまいました。
これはつまり、嫌なことを覚えているのは自分が辛いから、もう忘れてしまいなさいというくらいの意味だと思っていいのでしょうか?
それとも、まだ覚えている私が悪いという意味でしょうか?
中田 三恵様
寄り添ったご回答、ありがとうございます。
もし本当に我慢できなくなったら、そう送ってしまうかもしれません。