老苦、死苦は未来人にも通用するか?
こんにちは。こちらは私の知的好奇心からの質問になります。少しSFチックになってしまうのですが、このような疑問を他にどこでぶつけていいかわからず、ここに投稿させて頂きました。
近代、人類は科学技術を大幅に発展させています。近未来の人類には、「不老不死」の可能性があると考えられます。
ある研究では、若いマウスの細胞を老いたマウスのものと接続したところ、老マウスの体に一定の若返りが見られたとの結果が出たそうです。
また、AI技術の発達により、故人の人格を「再出現」させる実験も一定の成功を収めたように思います。例えば、AI手塚治虫が描く新作漫画や、AIレンブラントが描く新作油画が発表されました。
私はその道に明るくないので確かなことは言えないのですが、今後の人類の未来に「不老不死」の選択肢が出現することは大いに考えられるものだと思います。細胞技術で、老いない体を手に入れるかも知れませんし、AIに自分の人格を託して、機械の体で生き延びるかも知れません。
そこで疑問に思うのが、「お釈迦様の説かれた老苦・死苦は未来人にも通用するのか」ということです。四苦八苦というと、お釈迦様が定義された、人間誰しも被る苦しみのように思います。 しかし、「老」と「死」に大変革がもたらされつつある今、老苦・死苦の未来についてhasunohaのお坊様方は思うところはお有りでしょうか?
未来人に老苦・死苦を免れる可能性はあるのでしょうか。それとも、お釈迦様の説かれた普遍の真理の通り、いつの時代でも人間は老苦・死苦からは逃れられないのでしょうか。
(誤解などありましたら未熟な私をお許し下さい。)
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
二つの観点で回答します
こんにちは。
前回の質問でもご縁ありました。
私は、SFが好きなので面白い問いだと感じました。
二つの観点で回答してみたいです。
まず第一に、これはやはり未来の話なので、私の生き死にには直接の関わり合いがないと言うことです。
仏教はどこまでいっても自らが今生に於いて、いかに成仏道を歩ませていただくかということが大切です。今の私の目の前にある生老病死は紛れもない現実であり、仮設の問いかけはあまり意味がないと言うことです。
第二に、苦しみの原因は煩悩と言う自己中心性であり、どんなにこの先テクノロジーが発達してもその課題は永遠であり続けます。
老苦、死苦は人間の自己中心性が通用しない、思い通りにならないものの代表格であり、人類の共通事項です。確かに老いと死がなくなれば、人間の悩みの種は減るでしょう。しかし自分の思い通りにしたいと言う事は、老病死に限らずとも人生の様々な場面で顔をのぞかせるものであり、相変わらず周囲の人と軋轢を生み、人間の生き方の問題として残り続けると思います。
カズオイシグロの作品「わたしを離さないで」でもそうですし、映画「アイランド」でもそうですが人間は病気や老いや死を逃れるためなら、どんなことをしてもかまわないという状況にまでエスカレートしています。老病死を免れるために人間のために犠牲となる人間を作り出す、という内容になっています。物語とはいえ、あながちフィクションとは侮れない内容だと思います。
そういう時代になればなるほど、自己中心性を振り回す自分とはなんだろうか、あるいは自分はどう生きていけばいいのだろうかということは、ますます問題になるでしょう。その意味では仏教は将来にわたっても大切な役割を担うと思います。
また、テクノロジがーあるということと、それ実際に使うかは別の話です。
人間には核兵器というテクノロジーがありますが、だからと言って使用していいものではありません。同様に、将来に老病死を無くす技術が開発されるかもしれませんが、それを行使するのかしないのか、それを図る基準に仏教はなりうると思います。
以上、二つの観点で回答しました。
生まれるからですかね。
私は科学技術の発展に異論を唱える気はありませんが、何がしたいのか?最近は分からなくなっています。死なない老いがこないことは良いことですかね。苦しみは死があるからとか老いがあるから起きる訳ではありません。死なない。老いがこないことも苦しみですよ。嫌な人に何人も会ったり、病気や怪我をしても散々痛みを伴いどんな姿になろうとも生きる。独り孤独が続き、何百年間誰とも話さない。これらの苦しみを知ってか知らずか?研究している方々。私はその人たちに福利厚生させる税金が無く増税しかないとしたら、別の苦しみが生まれます。
あるがまま、生きることが私の望みですよ。別に贅沢しなくても高級品を手に入れなくても良いです。
ただ、このハスノハの活動は慈善ですから、皆さんの工夫と努力で盛り上げて欲しいですね。
質問者からのお礼
大鐵さま
ご意見、ありがとうございます。
私も同じような心持ちでございます。
私は永遠に生きることは永遠の苦しみに等しいと感じています。私は、人間が有限の存在である事は虚しく感じる時もあるが、同時に希望でもあると感じます。儚いものであるからこそ、生まれる価値もあります。
結局、不老不死を求める人間はたとえそれを手に入れたとしても新しい欲望に囚われてしまうというのが私の予想です。まあ生き方の選択は個人の自由なのですが、選択肢が増えていく世の中において自分がどう生きるかは重要になってくるような気がします。
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釋さま
再びのご回答、ありがとうございます。釋さまもSFがお好きなのですね。^ ^
私個人としては、人間が有限の存在である時代に生まれて良かったという思いがあります。諸行無常のこの世は、虚しくなってしまう時もありますが同時に希望にもなりうると感じています。私は永遠の生を受けるよりも涅槃に入ることを希望すると思います。
そうですね。もし人類が不老不死の選択肢を手に入れたとしても、それによってまた新しい煩悩が生まれることでしょう。生命とは何か、生きる事とは何か、これらの意味をより強烈に問われる時代になる気がします。
私が初めて仏教について学んだ時に感銘を受けた事は、それが遥か約2500年前に生まれたにも関わらず現代にも通用する思想を持っていることでした。世界が急速に変化している今、仏教の未来について気になっていたので質問させて頂きました。どんなに社会が変化しても、仏様の教えが人類に安寧をもたらしてくれると良いですね。貴重なご意見ありがとうございました。