罪悪感でもう死にたいです
こんばんは。私は過去(小学生の頃のころ)沢山の人を傷つけてきました。
陰口や悪口を言ったり暴言を吐いたりなどです。私自身も沢山悪口を言われてきました。その時の悲しみを私は分かっていた筈なのにです。
そしてその悪口や陰口が原因で友人達は離れていきました。その際にやっと自分がとんでもないことをしたのだと気づき、それからは自身の言動に気をつけ思いやりを忘れず生活してきましたが、ふと昔のことを思い出すと罪悪感で潰されそうになります。
「みな試行錯誤であり、それは良い経験であった」「もし昔のことを思い出したら心の中で謝り、今出会っている人たちやこれから出会う人たちを大切にしてあげてください」「神仏やご先祖様に向かって罪の告白、相手への謝罪、今後あのようなな事はしないといった誓いなど懺悔することを日課にする」といったアドバイスをいただいたり他の方向けのご回答を拝見したりして少しでも考え方を改めようと思いましたが、それでも罪悪感で息苦しくなってしまいます。過去が消える訳でもありません。もし今仲良くしてくれている友人達が昔の自分のことを知ったら?昔の自分を知っている人と今の友人が出会って自分の過去のことを知られたら?
そのような想像をしてしまい不安で仕方ありません。今でこそ多くの人に「優しいね」と言ってもらえることが多いのですが、昔の自分を思い出し、「本当はそんなことない」と素直に受け止めることができません。
「死」を選ぶことは逃げであり結局は自己満足でしかないことは分かっています。それでも罪悪感でいっぱいになり生きていくのが辛いです。
もう「死」が一番の贖罪ではないかと考えてしまいます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
生きながらに成仏しましょう
過去はもう過去の話。それを問題にしているのは周りの友達でもないあなた自身。そしてそれはただの記憶。
なかった話ではないけど、もう無い話。
どこを探しても無い。幻のようなただの記憶です。
最近まで聞こえていた蝉の声のように。もういくら耳を澄ましても聞こえない。
夕飯に食べたカレーの味のようにもう舌の上には味がない。
さっきまで見ていた気になるニュースも今はスマホの画面。
私たちが生きている現実は、目の前の今ココ。それ以外は想像のマボロシです。
家から離れて学校や会社に行けば家は無くなる。帰ればある。人によっては帰ったら家が火事でなくなり元の知っている姿でなくなっている。
そうやってこの身体のあるとこに徹して生きているのです。それが事実。
記憶に振り回されて思いの世界を引きずり苦しむのは地獄です。
成仏とは死ぬことではなく、生きながらに今の事実に地に足つけて生きていること。思いの世界に振り回されず自分とは何かをハッキリと自覚したときに成仏というのです。
過去の過ちのことは仏様が全て赦し今を与えてくださってます。そこに目を向けてください。問題にしているのはあなた自身なのだと。あなた次第。視点をどこに置くかで大きく変われるということです。
大丈夫です。すでに目の前に救いがあります。もうどこにも過去はないですから。
告白し懺悔なさって下さい
拝読させて頂きました。
あなたのそのお気持ちとてもよくわかります。記憶がよみがえってくるたびにあなたの心は深い後悔にさいなまれておられること、その罪への意識により死んでしまうのが一番の贖罪ではないかと思っておられることを読ませて頂きました。あなたのお気持ちを心よりお察しします。
あなたがそうお感じなさることは無理からぬことでもあります。誰もが罪を犯してしまうのがこの世の常ではありますが、犯した罪は確かに心の中に残り続けます。とはいえ死によってその罪が消えるわけではありませんし、死ぬことが贖罪ではありません。生きている中で自分のことを見つめていき犯してしまった罪を心から認めて反省なさり、これからの人生に生かしていくことが大事なことです。
これからの人生で毎日の生活の中で神仏やあなたのご先祖様方にむかってあなたがなさったことを懺悔して下さい。
朝起きてから或いは寝る前でもいいですし、ふと思い出した時気がついた時でもいいと思います。神仏やあなたのご先祖様方にしっかりと心の中で向き合いあなたが思ったこと言ったことなさったことを素直に神仏やご先祖様方に告白なさって下さい、そして深く反省なさり懺悔なさって下さい。そして心の中で傷つけてしまった方々に誠意をもって謝りまりましょう。直接謝ることができない方々もいますから心の中から謝りましょう。そして二度と同じような悪しき考えや悪しき言葉や悪しき行いをしないようにと心から神仏やご先祖様にお誓いなさって下さい。できれば毎日なさって下さいね。あなたのその思いや祈りや願いは必ず神仏やご先祖様に届き神仏やご先祖様はあなたの思いを優しく受けとめて下さいます。そしてあなたのお誓いを受けとり善き方へとお導きなさって下さいます。
あなたはこれからも生きていくのです。ですからその過去を踏まえてしっかりと学びとってこれからの未来に役立てて下さいね。
その様に心がけ人に優しく温かく助け合いながら生きていくのを神仏やご先祖様はいつの見守っていて下さいます。
あなたがこれからも周りの方々とのご縁を大切になさりながらお互いを尊重し合い助け合い心から豊かに幸せに生き抜いていかれますようにと切に神仏やあなたのご先祖様方にお祈りさせて頂きます。至心合掌
あいさんへ
あいさんが小学生のころ、何か精神的な負担、ストレスを抱えていませんでしたか?何もなければそうゆう行為には及ばないと思うんです。具体的な状況がわかりませんので一般論として書きます。いじわるというか陰口、暴言などしてしまう側の人の心の中には、何らかの大きな負担があり、沢山の苦しみや悲しみ、怒り、苛立ち、ネガティブな感情が渦巻きそれが抑えきれずに溢れ出て攻撃的に外に向かってしまうということだと思います。パターンも度合も色々だと思いますが、抑圧されたものが出てしまうということだ思います。何が陰口、暴言という行為の原因かを正確に表現するならば、「その人自身が悪いから」「心が曲がっている、歪んでいる、問題がある」ということではなく、外からの働きかけで生じたその人の心の痛みだと思います。
わたしは反省や謝罪は必要だと思いますが、罪悪感を持ち、自分自身を責める必要は全く無いと思います。
「一番の贖罪」ということでしたら、まずは、何も悪くないのに自分は悪いと思い、否定しなくてもいいのに自分を否定してしまっているということに気づくことだと思います。さらには、自分自身は初めから否定しようもないものという本来の自分の様子を見届け、罪悪感とは何か、もともとそんなもの誰も持つ必要のないものということを見届け、罪悪感で辛い思いをしている人にそれを伝えるということではないかと思います。
自分は悪い、許せないという自己否定はとてもつらいと思います。
「苦しみ」「辛さ」は、今の自分が自分の本質から離れている、ずれてきている時に生まれる感情で、離れている距離が大きければ大きいほど苦しみも大きくなるもの・・・と言う人がいましたが、私もそう思います。苦しみや痛みは罰として与えられるものではなく、どこかずれてきているよ~と自分に教えてくれている、合図のようなもので自分のために起きているものだと思います。このような受け止め方は、気持ちも楽になりますし、何がずれているのかと問題を明確化しやすくなり、
とても建設的な見方だと思いませんか?
今のあいさんで言えば、辛さの意味するずれは、悪くないのに悪いと自分を見なしているということだと思います。
質問者からのお礼
邦元様
過去の過ちは仏様が全て赦して下さっている、そう聞いて心が楽になりました。自分は過去ではなく今を生きていると理解して、変われるようにしたいと思います。ありがとうございます。
Kousyo Kuuyo Azuma様
死ぬことは贖罪ではない、生きながらに懺悔し、過去のことを踏まえて学んでいくことが贖罪だと分かりました。これからはご先祖様、仏様に全てを告白し、少しでも良い方向へいけることを信じてみようと思います。ありがとうございます。
法演様
小学生の頃精神的なストレスを抱えていた、確かにその通りです。仲間外れにされたりクラブ活動でも居場所が無く本当に辛かったのを覚えています。過去の過ちの理由を知ることができてよかったと思います。自分も相当傷ついていたのだなと気がつきました。ありがとうございます。