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「人の為」ってエゴにあたりますか。

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お世話になっております。
定かな答えなどない質問かとは思いますが、皆様のご意見を伺いたく投稿させて頂きます。

元々抱え込みやすい性格で、こちらでもたびたびご相談させて頂いておりますが、色々と考えているうちに、私にとって「人に認めてもらう」事が自分を認めるための手段、まさに承認欲求の塊だと感じる事が増えました。誰しも少なからず承認欲求はあり生きるうえで必要かと思いますが、私はその割合がかなり大きい気がします。そのため、周囲を気にせず主体的に生きている人は尊敬するし憧れる存在です。でも、そのように自分を信じて主体的に動く感覚が未だに掴めません。「自分の思いのままに動く」事が非常に不安で、それ以前にそもそも自分が本当にやりたい事って何だろうとふと考えます。

現在介護職をしていますが、元々これも「誰かの役に立てる仕事がしたい」との動機からでした。実際やりがいや達成感は大きく、それがまたモチベーションにも繋がっています。仕事中どんなに辛くても、ご利用者から「ありがとう」の言葉が得られると素直に嬉しいです。
一方で、自分は「純粋に人の為に何かをしたい」というより「そうする事で人から認めてもらいたい」というエゴなだけなのかなと思う事があります。人に尽くしたいというよりも、根本ではそうする事で認められたい、必要とされたいのかと思い、果たしてこれって良いのかと不安になる事が増えました。

仕事のみならず休日もです。本来なら自分のための時間のはずなのに不安で落ち着きません。趣味がないわけではないのですが、その最中でさえ、ろくに仕事もせず自分一人のために時間を費やしていて良いんだろうかと過ります。そのため、休日も家事や自宅でできる作業等に極力時間を充てています。ただ、合間に手が空いた時等、この時間に何かできないのか、一人で呑気にしているなんて無駄ではないかとすぐに焦ります。自分が所属するコミュニティを増やせば少しは変われるでしょうか。

とにかく時間に追われて働いていないと落ち着かず、且つ他者の反応を通してしか自分を認められません。でも、最早それでは真に「人の為」にすらなっていない気がします。それを口実に自分を満たそうとしているのかなと惨めで、むしろ自信を失くす一方です。

自分に自信を付け、自分で自分を認める方法、そのために必要な心がけが知りたいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ハート♡のアクションは誰にとってもうれしい恵みと捉える

🐱ただいま、当山に棲みついているネコが私にとりついておりますのでネコ目線でお話ししますにゃ。🐈
人が受け取ってうれしいもの、うれしいこと。
それは人間の本心のレベルで決まっています。
ネコにもしてもらってうれしいことがあります。ゴロゴロゴロゴロ…。(のど撫で・デコ撫で)
あっていきなり乱暴なことをされれば「(*´Д`)は?何事?」となりましょう。
ネコふんじゃったとか、かつ節やるからよっといで、とか上から目線なの、誰でもいやでしょうに。
もし初対面で好感度高めでやさしい言葉、きれいな容姿、よき香り、配慮の行き届いた対応などがあれば、誰でもすくなくとも悪い気はしないでしょう。別にホストクラブでも高級クラブでもなく、人の接待の事でもなく、人がされて心地よいこと、心地悪いことは生物は「本心レベルできまっている」ということなのです。
仏教にも「だから」戒律があるのです。傷つけるな、害するな、盗むな、尊厳を汚すな、ウソつくな、依存するな、責めるな、自画自賛するな・けなすな・ケチるな・怒るな・そしるな…。これらもみな人間の本来のネコちゃん安心ゾーンを損ねちゃいけにゃいと言うことですにゃ。それはあらゆる生物に共通しているのです。
人間も犬も猫も鶏もされていやなことはある。
反対にされてうれしいことがある。
それをするのに人の為とか、ボランティアとか、偽善だの、自分の為だとかは絶対にありませんし、あってはニャりません。そういうものは人が人の善意をダメにする貶めワードというものです。そんな言葉や心理トラップには引っかかってはいけません。
私もある尊敬する人が一生懸命みんなの為に料理を作ってくれていたのですが、口の悪い人が「あれは自己満足だ」と酷いことを言っていたのです。そんなことを言って誰が聴いていてうれしいでしょうか。けなす。バカにする。貶める。価値を下げる。DISる。ののしる。下げる。誰もうれしくありません。爪を立てちゃいけないところに爪は立てちゃいけないのです。
あなたはあなた自身がせっかく良いことをしているのですから、今後も堂々とみんなが喜ぶ「ねこなで・のど撫で・デコ撫で」に通ずることをやってください。
あなたがやってもらってうれしいことをしなさい。🐈
そうすると相手もうれしい。そうすると承認欲求も高まりコンプも吹っ飛びますにゃ。
自信とは自分がこれだ!という確信です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

承認欲求とのつきあい

ご投稿を拝読させて頂きました。
私の意見を書かさせて頂きます。

tamaさんが自信をつけていくのに、私がオススメしたいことは「読書」や「他業種の人との会話」の習慣です。私がそう考えた理由を記載します。

 さて、「自分に自信がある」とはどういう状態でしょうか。私は「自分の行動は正しい、確実だ」と確信している状態だと思います。私たちの生活は行動の連続ですので、人は自信があるときもあれば、ないときもあるのです。
 私も家にいると、自信がなくなることがあります。「他にもっとするべきことがあるのでは?」と不安になるのです。思い返せば、小学生のころは学校から帰ると友達と遊んだり、ゲームしたり没頭できたのに、中学生になると没頭できなくなりました。「勉強」という優先事項が私にできたので「遊ぶ」ことに迷いが生まれるようになったのです。そういう意味で、中学生の私は遊ぶことに自信を無くしてしまったと言えます。私もtamaさんの休日の不安が少しばかりわかるように思います。
 tamaさんの仕事での不安は、僕の場合より少々複雑ですね。語ることは避けておきますが、「承認欲求」と「純粋な自己の動機」とは、共存していけるものだと思います。一方が存在するかぎり、もう一方が許されないものではないと思うのです。とは言うものの、この不安への答えはtamaさんが(慌てずに)探していくことが、いいように思います。
 話を戻しましょう。私が上記の習慣を進める理由は、様々な価値観、世界観を蓄えることが自信に繋がると思うからです。一つのジャンルではなく、様々なジャンル、時代の本を読むことをお勧めします。同様の理由で、普段話さないような人と話してみるのもいいでしょう。多様な生き方、世界観、価値観を知ることで「こういった考えもあるだ」「こんな世界で生きている人もいるんだ」となんらかの発見があるはずです。これらを例とした様々な情報が、tamaさんにとってプラスの変化を起こしてくれるように思うのです。
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追記:仏教的なこと

「心の五つの覆いを切り捨て、
 すべての煩悩を除去し、
 なにものにも頼らず、
 愛欲の過失を断ち切って、 
 サイの角の如く、ただ一人歩め」
                  『スッタニパータ』1-66
字数制限でここまで..応援してます!
   

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有り難し
おきもち

真宗大谷派僧侶。男性、神奈川県、20代、機械技師。 初期仏教、真宗を主に学んできました。 仏教を学問として俯瞰すると、スポンジの繊維のように相互に関係しあい、複雑な立体構造を構築しています。時代や宗派によって見識が異なる場合も多々あります。偏頗にならず、かといって相対主義に陥らず...未熟若年ですが、せいいっぱい回答させて頂きます。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。
「自分に対する確信がある状態」が自信である事、なかなか意識できていなかった事に気づかせていただけました。

物事に対して、「自分のため」や「人のため」という捉え方のみならず、「自分とはこうだ」という視点に立って行動を起こす必要性が少し分かったように思います。

少しずつ自分に自信を持てるような行動を心がけていきたいです。

改めまして、丁寧なご回答ありがとうございました。

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