デリカシーのない義父母
結婚して16年。男の子二人の母です。私は義父母が苦手です。長男の出産の時にお世話になりましたが、その時に心ない言葉を言われて産後鬱になりました。
未だに許せない気持ちはあります。幸い遠方で1年に一回会う程度ですが、あまり良い関係は築けてないです。電話も数回程度です。
こんな関係で良いのか悩んでいます。いつまでも許せない気持ちを持ち続ける自分も執念深くて自分の事を嫌いになります。
どういう気持ちで整理して良いのか年始に会うのですが、どう対応していけば良いのか教えて頂けましたら幸いです。
自分に、自信がなくていつも暗いです。こんな自分でも変えていきたい気持ちはあります。
宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分らしく。形に こだわらない ことを心に持つ。
拝読させていただきました。
世間体や、身内の関係性というものに
「こうであるのが普通ではないのか?」
と、いうことに “ とらわれて ” ないでしょうか?
意識をすると誰もが、その意識に吸い込まれていくものです。
また、こうであって欲しいという気持ちを小さくしていくことが苦や不安を遠ざける機縁となります。
「なぜ?あのとき、あんなことを言ったんだろう?なぜに言われなければいけないのか!」と思う気持ちには欲求心があるものです。
よく痴話喧嘩なども含め、一人は気にしているが、もう一方は気にしていないこともあります。そこには個々が感じる捉え方により憎悪が生じていきます。相手方は「そんなつもりで言ったのではない。」と勘違いされることもあれば、「いや、本当はもっと言いたかった。」などあります。
釈迦はこのように説きます。
「人は口の中に斧をもっている」
それだけ、人間は心が繊細であるからこそ、言葉遣いには気をつけなさいよということも捉えることができます。また、そのときの心境により、釈迦の言葉も受け止め方も変わるものです。
相手のこと(義父母)のことをあまり考えずに3つ星さんは3つ星さん“らしく”でいることを願います。
子どもたちに映る義父母に対する母親の姿は、どこかしら「なぜ?あんなに気を遣うのであろう!?」と人間関係の疑問を感じさせる要因ともなるものです。
◇気丈に振る舞う人には、魔の入る隙はないものです。
遠方に住み、一年に数回程度なら心身的にも適度な距離と感じます。忘年会などでは大人数ともあり、中には嫌いな人もいるものです。でもみんなで同日をとることから、人は適度な距離感を取りながら、「まあまあ仕方ないか」などと思いながら、その場を過ごすものです。
だから、普通のことなのです。もっとこうあってくれれば有り難いのに、過去のことを謝罪してくれれば私も変われるのに、言葉使いも変われば、私も仲良くしようと思うのに。
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上記の言葉には「のに」が含まれます。これは、そうであって欲しいという承認欲求の一つでもあるのです。
自分らしく、わたしはわたしで生きていく。そして、適度な距離だから、無理せずとも少しなら当たり前かと少しずつ慣れていくことを少しだけ持ってみてみてはどうでしょうか?
相手が悪いこともあれば、相手に求めている無意識な自分も時にはあるものです
質問者からのお礼
メッセージありがとうございました。親身になり、私に寄り添いながらアドバイスをしていただきまして感謝致します。
私は人に対して認めて欲しい気持ちが強いと感じました。少しずつ小さくしていきたいです。
今の環境は、凄く有りがたいです。義理の親とは嫌でも付き合っていかなければいけないので、肩の力を抜いてリラックスして、口の悪い2人は変わらないと思って何か言われても一度受け入れて、要らないと思ったら忘れる練習をしていきたいです。
私らしくですね。
心掛けるようにします。