自殺者は救済されるのか
仏教では、因果応報をとくといいます。
自殺は禁じられていないものの、その業は次の輪廻へと受け継がれるといいます。
今生を投げ出した業、身近な人を悲しませた業、遺体処理等で迷惑をかけた業。。。
それでも阿弥陀如来は極楽浄土に導いてくださるというのでしょうか?
絶命の瞬間、阿弥陀如来の後光に包まれて、浄土に導かれ、仏になるための修行をすることができるのでしょうか?
因果の道理を捻じ曲げてでも、救われるのなら、苦しみに満ちた今生を早々に去り、阿弥陀様のもとで修業をしたいと思います。
どうなんでしょうか?
多分、答えづらい質問だと思います。
でも、もう、疲れました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
実際に行動していますか
こんにちは。
あなたは五ヶ月前の返信で次のように書いていました。
「仏はいるのだ」「自分は守られているのだ」という確信が得られる体験が欲しいです。
反社会的な宗教団体は、しばしば「神秘体験」を売りにしていますが、むしろそのような神秘体験による信仰の確信が私には必要に思います。
どうすれば信仰に確信が持てますか?
山に入って滝に打たれれば?
ひたすら読経すれば?
こう書いていました。
実際にどれか一つ行動に移されましたか。継続していますか。そこから何が分かって、何が分からないのでしょう
仏教は、教ですが行(教の実行)があってこそです。どうも、教の選択の段階で逡巡し続けているように見受けます。阿弥陀様も、宗派によって位置づけが違います。
まず一つの宗派に打ちこんで下さい。
そこから始めて次の展開が開けます。
念仏すれば往生できる
ご安心下さい。
自殺するしないに関わらず、念仏すれば往生できます。
私たち煩悩まみれの凡夫は、自殺してもしなくても、はるか昔からの輪廻の中で無数の罪を重ねています。
法然上人は、阿弥陀仏の慈悲を親心にたとえています。
親は、子供の罪を見て嘆きながらも、子供を見捨てない。
阿弥陀仏は衆生の罪を嘆き衆生の善業を喜びますが、阿弥陀仏は善人も悪人も見捨てないのです。
なお、往生した後に極楽浄土で悟るまでに必要な修行期間には個人差があります。
善人は悟るのが早く、悪人は悟るのが遅いでしょう。
だから、できればこの世にいるときから罪業を減らして功徳を積んでおく方が良いのです。
この世は、浄土に比べて善業を積みにくい世界です。
だからこそ、この世での善業は、極楽での善業の何千倍も功徳(修行効果)があるのです。
悟るための学校が極楽浄土で、悟り(成仏)が卒業だとすると、阿弥陀仏はどんな劣等生でも極楽学園に入学させてくれ、一人前になるまで学園を退学させられはしない。(極楽の住人は寿命が無量。)
早く卒業(成仏して極楽以外の場所で衆生を救う側になる)したいなら、入学前から修行の予習をしておく方が良いのです。
罪深き私たちが阿弥陀仏に救われる、その恩返しは、極楽浄土で仏に成って、私たちが今度は誰かを救う側になること。
救われたその先を見ましょう。
質問者からのお礼
釋 悠水 先生
ご回答ありがとうございます。
お寺でお札をいただき、お札に勤行しています。
お施餓鬼をしたりもしました。
まだはじめたばかりで、継続は力というなか、なかなか実感できずにおります。
しかし、叶わぬのは仏意によるもの、大難が小難になっていると思うようにしております。
業の洗い出しで、デトックスとして悪いことが出ることもあるとか、
継続せず、ご利益ジプシーのようにさ迷うのは愚行であるとか、そうも思っております。
でも、疲れました。
そこで、今回のように、都合の良いことがあればいいなと思い、投稿しました。
願誉浄史先生
ご回答ありがとうございます。
見捨てないとのご回答、大変安心しました。
私のような劣等生は、今の苦しみから逃れたく、阿弥陀様のもとで、長く、長く修行することになると思います。
この世での善行をしたいと思いますが、なんだか、疲れてしまいました。