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開眼供養について

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はじめまして。
よろしくお願い致します。

私は決まった宗派に属している訳ではないのですが、以前からお寺と仏像が好きで、あるお寺に月に1度程度なのですが参拝しています。
そのお寺のご本尊はお不動様なのですが、何度も通い拝んでいる内に、何とも言えない心の満足感や安らぎを感じるようになりました。
そこで、自宅でもお不動様を拝みたく、木彫りの不動明王像を購入しました。(ひと目見てとても気に入り、彫刻家の方に直接連絡をとってオーダーメイドで造って頂きました。まだ手元にはありません。)
生活状況から毎日しっかりお勤めができる自信が無い為、開眼供養はしないつもりだったのですが、調べている内にしないで拝むと魔が入るという事を目や耳にし、大変不安になっております。。。

お勤めがしっかりできなくとも開眼供養はするべきでしょうか?
そもそもそんな心構えでは仏像を手元に置くこと自体間違っていますか?
魔が入るといるのはどういった事なのでしょうか?
勉強不足で申し訳ないのですが、ご助言頂けると嬉しいです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

是非開眼して頂いてください

お不動さまが本尊さまのお寺に通ううちに、お不動さまをさらに拝みたくなられたんですね。
素晴らしいご縁を頂きましたね。

お不動さまのお像を注文されたのでしたら、是非通っておられるお不動様がご本尊さまのお寺のご住職さまに開眼して頂きましょう。
ご住職さまにご相談されたらきっと快諾してくださるとと思います。
その時に開眼料もお聞きになって、開眼して頂く時にご住職様にお渡しください。

開眼をしなければ良くないものが像の中に入る場合もあります。理屈ではありません。
お不動様や多くの仏様、曼荼羅を日本へもたらした弘法大師空海さまがお開きになった真言宗では、開眼作法はとても大事なこととして伝わっております。

たとえ毎日拝めなくとも、尊像を祀るのであれば、是非開眼をして頂いてください。

追記。
密教以外の宗派の方には全く理解できないかも知れないと思います。
理屈ではありませんよ。
形だけなんてことでは決して無いんです。
お不動さまを日本へ連れてこられたのは空海さまです。
その空海さまの教えで、しっかりと開眼作法が伝わっており、とても重要なことです。
密教の仏さまであるお不動さまをお参りされて、もっと拝みたいと感じられたのであれば、是非、密教の仏様の修行を終えている方(あなた様の場合は通っているお寺のご住職さま)に開眼をお願いすることをお勧めします。

密教は心のエキスパートだと私は思っています。本来あなたの心の中からしか仏さまとはお会い出来ませんが(心の中と言っても、気のせいとか実在しないとかの意味ではありません。あなた様やあなた様の周りの世界自体があなた様の心の現れの一つですが、理屈に走るとさらに解らなくなるかもですから割愛します)しかし、それを気づくには理屈や屁理屈では無理です。
あなた様の心の中にダイレクトに響き導いてくださるのが仏さまのお力です。今は理解出来ないかも知れませんが開眼はそのためにあります。
仏さまを開眼することは、ともすると形だけと見る輩がいるかも知れませんが、それは何も密教がわからない方の戯言だと私は思いますよ。

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仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

できれば魂入れなさってみてはいかがでしょう

拝読させて頂きました。
魔が入るということは私はあまり聞いたことはありませんが、あなたにとってその仏像は手を合わせる信仰の対象となるのでしょうから、できればその仏像に魂を入れることは望ましいと思います。

よく言われる言葉で「仏作って魂入れず」という言葉がありますが、やはり形つまり体裁ばかりにとらわれたり追い求めることよりも心をやどすことや心を込めていくことが大事だということを伝えているのかと思います。

あなたがその仏様をいつも拝むのであるならば宜しければお参りなさるお寺様にお話なさってみて「その仏像に魂入れ(開眼供養)して頂けませんか?」とご相談なさってみてはいかがでしょうか?
そして魂入れ(開眼供養)なさって頂いたらあなたのそのお気持ち感謝を込めて「お布施」をなさってみて下さいね。
その仏様への最初の信仰の気持ちとして仏様へお供えなさえる心としてお布施なさってみて功徳を積んではいかがでしょう。そうすることで一層その仏様へのあなたの思いがつのるでしょうし、あなたの信心が育っていくでしょうからね。

そしてできる範囲で毎日手を合わせてお勤めなさって下さいね。仏様はいつもあなたを優しく見守っているでしょうからね。
あなたがこれからも素直に仏様に手を合わせて信仰を持たれ、仏様に守られながら毎日を健やかに穏やかに生きていかれます様心より祈っています。

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脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

本当は何をすること、どうなることが「開眼なのか」と問う

こんにちは。難解な仏法を誰にでもわかりやすく。読者サマに法眼、仏眼、正法眼を開眼せしむるために仏の世界からの派遣された日雇い無賃金メガ・ギガ・寺バイト僧侶、あなたの心のセコンドの囁き女将。一本足りない丹下覚眼ともうします。👁👀
開眼というのは、その意義・内容・真意をこそ実際にあなたが見開かれることこそが大切なのです。法の眼が開く。仏のビジョンの法眼が開くこと。お坊さんにカタチの上で開眼をしてもらって「それでOK」というのであれば、…それでいいです。(-_-;)シュン…
ですが、もうちょっと意識高めに。
その方が人生に智慧や慈悲、種智が開かれる。
仏眼、法眼、正法眼とはなにか。
私たちにどういう眼が開かれることを言うのか。
わたしたちの人生にどういう眼が開けば開眼をされたと真にいえるのか。
観音様にも真眼、清浄眼、広大智慧眼、慈眼、悲眼という五つの眼、五つの観察眼、省察眼がある。眼=観。『法華経 観音経』それを法眼、仏眼という。この世をどう観るか。その仏の眼、法の眼を開く。
そもそも人間の眼玉というものは本来はその通りにものを映す。ですが脳内越しになればそここら人と仏との分かれ道が生ずる。俗世の凡情、私情、感情という人間の私的な「私見」ごしにものを見るようになったら、それはいくらご本尊を開眼をしても凡見、凡情、私情、私的感情、俗の見解眼。本尊とはモノの方ではなく、この自己の身心の深層心理、脳内のメインOSに鎮座する最上最高の理性作用であり、日常全てをつかさどる自己の本来性。だからその象徴仏の本尊の開眼するということは、この宗教、この宗派、この教え、この坊主の言うことなら納得じゃ、と正しく理解し(信)、それなら科学的にも根拠があるし信じられる(信)、そして科学よりも人の血が通っているわい(信)、そして、生活の一部となり、これを会得すれば自分や家族や友人も世界の人々が幸せになれること間違いあるまぃと信心決定し、釈尊や祖師たちと同じ志で良きことを広めんとの清浄願を(菩提心を発願)発して「その仏像を建立する」というぐらいの気持ちがあっても良いのです。仏像、位牌、供養塔、寺院を建立するとはそこに誓願があってこそ。重たく考えなくてもいいですが、本来がそういうものだからそれに準ずるぐらいの大誓願をおこすことで世俗心での建立(魔が入る)にならず半眼は開いたと言っていいでしょう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご助言ありがとうございます。
開眼供養をしたくともお勤めがちゃんとできるか不安だったのですが、できる範囲で、と言って頂けて心が楽になりました。
自身の信仰心を大切にし、開眼供養を行う方向で考えていきたいと思います。
ありがとうございました。

※悟東あすか様※
ありがとうございます。
最初はとても辛いことがあり参拝した事がきっかけでしたが、その時は自分にとってお不動様がこんなにも有り難い存在になるとは思いもしませんでした。
本当に素晴らしいご縁を頂いたと思っています。
開眼供養をしても日々のお勤めがあまりできない→仏様に失礼にあたる
開眼供養をしないで拝む→良くないものが宿る
と思いとても悩んでいましたが、やはり開眼供養をし、できる範囲で手を合わせお勤めしていこうと思います。
ご助言、ありがとうございました。

※丹下覚元様※
有り難いお言葉の数々、ありがとうございます。
上手く言葉にできないのですが、全ては自分次第、ということでしょうか。
私の知識が浅いばかりに、丹下様のお言葉の真髄まで理解出来ないのが悔やまれます。申し訳ないです。
仏教についてこれからもっと勉強していきたいと思います。
ご助言ありがとうございました。

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