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旦那の家族との間で悩んでます

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こんにちは。ご無沙汰してます
私は主人のことは特に嫌いではありません。
でも彼は義実家にいることが好きで距離が近いこともあり毎週末私と子どもを連れて帰ろうとします。
この義実家ですが私は義理の両親はいいんですが義兄弟が好きじゃありません。
以前義姉が人としておかしいことを笑いながら言ったり不機嫌を撒き散らし八つ当たりしたりしたので私が怒り喧嘩になったので旦那にその不満を伝えたら「そんな悪い人じゃないのにそんなに嫌う君がおかしい。こういう人もいるんだから黙って我慢すべきだ」
と言われ無理解さに余計ストレスがたまりました。
彼女とはそれからほぼ疎遠です。
あと義弟がいるのですが彼は人が嫌いで会えばよく人や物への愚痴や悪口をずっと言ってます。あとお風呂入らないから不潔なんです
初めは私もスルーしてましたがほとんど毎回そうだから段々疲れがたまってきていますが主人に言ったらきっと義姉と同じ反応をされるだろうと思い話してません。
なので義実家には心の余裕がある時以外は行きたくないんですが
旦那が毎週末誘ってくるから毎回断るのも面倒で内心ハッキリ言って「もう誘わないで」って言うべきなんでしょうか?
ちなみに子どもも義理両親が好きで行きたがる感じです


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

丁寧に遠慮して夫と子供たちからも解放されてハンズフリー✨

義理のおねーさんは勝手な推測ですが、家族的になろうとしているんじゃァないでしょか?どことなくよそよそしいアナタに対してうちの一族・家族になって溶け込んでもらいたくてわざと普通は会社などでは(# ゚Д゚)絶対に…!言わない他人の悪ッ口を「家族と認めたアナタ(´-`*)」の前で「わざと」「ショーモナイことを」言ってこっちの輪に入ってもらおうと思って素をさらけ出しているのでは?あなたも本音をさらけ出せる相手の前で愚痴をこぼしたり、不満があれば憂さ晴らしやガス抜きをするでしょ?悪口じゃァないんだ家族なんだという視点を保持。ああ、私も確かに結婚して同じ一族となったけど心理的な壁があったかなぁ、と🐵反省🍌
たしかに溶け込むにしてもテンションや周波数が異なりますから、あなた的にはおいおい(´-`⚓)悪口で仲良くなれってかよ?冗談じゃないわよ( ˘ω˘ )という気持ちもあるかと思いますが、それは同じ愚痴の心理。おねーちゃんなりにあえてボトムを晒してあなたと親近感を持ってもらおうと思っただけかと。仮に違うにしても「100万歩ゆずって」そうだと思い打ち解け合うということが間に挟まれる旦那の負担も軽くなり家族円満の道。まぁ外から単独でやってきたワイフ様のお立場では難しいのですよね。緊張するし、気を使うし、だからと言って相手の家族にザクザク言えないしマスオさんでも無理。人嫌いの弟さんも人が嫌いだからこそ、この人間だらけの世界の中で解決策を探してつい悪口や自己正当な発言をして心のバランスを保っているという視点保持。120万歩👣ゆずって。お風呂に一週間は要らないのは1200億歩👣ゆずって(´-`*)きっと弟ちゃんはお風呂のカルキの匂いが嫌いなのね?水アレルギー?それとも持続可能なエネルギー保持に貢献?まぁ立派。よしよし。頑張れ!人間嫌い。そういえばアタシもよね?とでも思ってあげて丁寧に観察してみましょう。うちの鶏を襲いに来るアライグマやタヌキなんて入浴経験ゼロですからスゲー臭かったですわ。🦝この前、鶏襲いに来たので掴まえようと追い回したら本堂の下の板に挟まって押さえつけてたらうんこも出てきまして。ウゲー。鼻曲がるかと思いました。それに比べれば🦝💩(´-`*)偉いわ、この子(比べるんかい)一週間に一度もお風呂に入っているなんて。だんだん愛らしくなってくると思いますよ。ホンマカイナ

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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