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重い霊障に悩まされています

回答数回答 2
有り難し有り難し 28

重い霊障でとある霊能者に相談し、訓練を受けたことで破滅しました。
あらゆる魑魅魍魎のゴミ捨て場となってしまった私と私の家族と、親戚と、それぞれの家。

私自身は霊感をこじ開けられ、見る聞く事すら出来てしまい、常に、憑いている悪魔?魑魅魍魎に罵詈雑言を浴びせられる毎日です。口も手も思考も、中枢神経すら握られて仕事すら失いました。
逃げ込める聖域は無いかと探している程の事態です。

神社や家から一歩でも出れば、私を狙っている悪魔の分裂しているその欠片が追ってきて逆戻り。普通の人生を送りたいと、毎日願っております。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

他者からの言葉に自分がそれ以上に負の意味をつけて苦しんでいる

こんにちは。ZEN霊障アドバイザーの智美蒙嶺張良閥虚と申します。
貴女の今の心理状態を透視してみます。せっかく霊能力を活かそうと思って業界に入ったけれどもどうやら内部である方との心理的な方向性の違いから衝突をなされた。お若い頃からスピリチュアルや心理学、人間の精神に関することに深く興味がおありだったご様子。そのきっかけはご家族やご友人との接点の中で徐々に微細な感性が開かれるようになり、言葉を交わさなくとも相手の表情や態度だけで相手がどのような人であるかがわかってしまう力をもってしまった。とても世の中を良くしたいというお気持ちがおありですね。そして、曲がったことが御嫌い。つい、自分のルールや主観を優先させてしまうところがある。高い理想を追求してしまうあまりに、かえってそれが自他を追い込んでしまい他人と衝突になってしまうことがあった。その再発を恐れる心理があります。ただちょっと残念なことはあなたは他人からあなたの持ち前のやさしさや謙虚さ、低姿勢すぎるところ。かえって他人からスキマを狙って入り込まれてしまう。それが貴女自身の世直し精神や正義心を利用・悪用されてしまう弱い所です。どうやら、ある方からマウンティングをされている状態にあるようですね。脅迫的な心理に追い込まれていると感じませんか?誰との関りによってそれが起こったの?おそらく貴女に何かを教えようとした人。その人が大きく関わっているように感じます。ちょっとした双方の心理的なすれ違い。相手が諦めてしまいあなたに対して冷たくあしらう為に悪いことを口にした。そして、そこであなたはその言葉でその人をあなたの持ち前の優し過ぎる心で信じるあまりに大きなショックを受けられたのでしょう。そして、その苦しみや辛さがバランスが崩れて安定性を失った心理に陥っているだけです。その為に、現在あなたの過去において蓄積された脳内の記憶と負の心理が結びついて貴女が貴女の聖域を自分でイジメるように仕向けられてしまっているようです。これはどうやらトラップ、心理誘導です。大丈夫。それは簡単に外せます。ただし、手放す志と決意、勇気が大事。普通の生活に戻りたければ貴女がお持ちのスピリチュアル、霊障を生む原因となった書籍など家にはおかないこと。処分するか当山まで郵送して頂ければお焚きあげ供養を致します。まず見つめるべきは自分が自分を否定したり、いじめないこと。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

pareporepaさま

霊障と思い込んでいる、思い込まされてしまっているという状態であるのかもしれません。

まあ、霊云々よりもよほど生身の人間の方が恐ろしいものではあります。

とにかく生身の人間も、魑魅魍魎たちも、その全てを供養対象とて、追善することで善趣へと資して参りたいものとなります。

身近にできる功徳から少しずつであります。

何か読むお経となりましたら、観音経世尊偈と普回向をお勧め致します。

安らかな日々が一日でも早く戻りますように。

合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

詳しい説明は申し上げられませんが、自分で乗り越えられるものと固く信じて生きてまいります。
回答有難う御座いました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ