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恋愛心をなくして無になりたい

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有り難し有り難し 11

タイトルのとうり、恋愛心をなくして無になりたいです。
中二の時に女子4人に、恋心を遊ばれた時からずっと思っています。
どうすればいいでしょうか。
仏様は許してくれますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一面を見て捨てるのは嫉妬を生む

そのお年で恋愛心を捨てようという志は良いと思います。
しかし、捨てるなら叶えてから捨てるべきです。
本当は望んでいるのに、手に入らないからといって捨てると、同じ願いをかなえている人がうらやましくて仕方なくなります。
うらやましいと無になれません。
でも、“うらやましい”は無になるにあたって非常に厄介な強敵になります。
ほとんどの場合、“うらやましい”と戦って無になるより、自分の恋愛心をかなえてから無になる方が簡単です。
頑張ってください。

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有り難し
おきもち

日蓮宗の僧侶、啓誠(けいじょう)と申します。 修行に失敗し、一度は腐り切ったり、同僚とぶつかったり、挫折挫折の仏道人生を歩んでおります。 だからこそわかる、答えられることがきっとあると思ってHasunohaに戻ってまいりました。 精一杯、皆様のお役に立てるよう頑張ります。

どっちも男女としてお互いに未熟だったのだと知る

hasunohaによせられた恋愛相談あれこれを読んでみるとよいでしょう。
大人になったイイ年した男性や女性が、いまだに相手をもてあそんでいたり、もてあそばれたりしているのが今の令和の世の中の真実です。
このhasunohaにもそれを物語るお悩み相談が貴女よりも年上の人たちで山ほど寄せられています。
よって、それはまだ始まったばかりと知りましょう。
やり直しがきく良い時代だと思うことです。
平安、鎌倉~江戸であれば、相手も選べなかった時代もあったのですし、今もそういう世界があるのですから、軽い傷で済んだぐらいにかわしましょう。
席替えと同じように、あうあわないという人がいるだけです。

もてあそばれたのではなくて、あなたの愛情を注ぐべき人たちではなかったというだけだと思えば失うものはありません。
どうせ結婚するわけでもないのですから。
相手がもし悪意をもっていたのであれば、あなたの愛情もあげるものでもありません。ちゃんとふさわしい人の為に取っておくべきです。
あなたは貴方の能力や才能であなたのご両親のようにあなたを今の年まで育ててくれたように、誰かを好きになり、それなりの収入を得て、誰かと一緒になって誰かの家庭を築くことがあなたの愛の方向性ですから、👨‍👩‍👦‍👦学生時代の恋愛や恋愛に似たよく心をどこへ向かわせて良いやらわからない不完全燃焼なエネルギーは今燃焼させる必要はありません。
お互いが未熟でお互いが人間というものを知るために変な関りがあったというだけで大きく広い目で心を緩めることです。掴んでたってあなたが嫌な思いをするだけですから、触るとカブレるような植物には近寄らない方がいいように、今後もそういう人間とは距離を置くことです。
相手がどういう心理で、どういう意図で、どういう気持ちで異性に対して働きかけるかはお互い謎ですが、それも人間としてのお互いの未熟さという赦しを持つのです。さほど深い意味や正当な理由を求めるよりも男性と女性で考え方も感性も性別も違うのですから、あまり難しく考えずに、あなたが幸せにできる人のために純粋な気持ちを温めておいてください。
あなたはいつか誰かを幸せにすることがあなたのその痛みやかなしさを良い方向に向かわせるための道です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。

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