仏教的に見た、善人と悪人・罪人
10代の頃から悩みの多い人生で、未熟なまま大人になりました。
家庭を持ち30代になっても周囲に対して愚かな言動をしてしまい、人を気付けたり迷惑を掛けたりしてトラブルになってしまった事が複数ありました。
反省と後悔で苦しみながらこちらにもお世話になっています。
様々な問題を抱えており、これから先の人生に希望をなかなか持てずにいます。
ハスノハでもいろいろな回答を読み、特定の宗派と言うよりは、お坊さんのお話で自分にしっくりきたものを取り入れさせてもらっています。
ある宗教評論家の方が出されている本で、とても気になる事が書いてありました。
それは、「この世の中には善人も悪人も必要」
そして「人間は皆それぞれに役割が決まっていて、それぞれ精一杯にその役を演じれば良い」
更には、「お浄土へ行った時、仏様に労われるのは悪人・罪人の方」との事。
極端な物言いを売りにしているので、この抜粋だけでは著者の本意が伝わらないかも知れないのは恐縮ですが、お坊さん方はこの考えについて、どのようにお感じになりますか。
(ちなみに、誤解を恐れずに言うと、私は少し救われた気持ちになりました。
だからと言って、罪を犯していいとか人を傷付けていいとは決して思いませんし、著者もそういう意味では言っておられないと思います。)
お坊さん方の見解をお聞かせ頂ければ幸いです。
自分をよく見せたい。人から認められたい。自信がない。人に嫉妬してしまう。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
成分表で「仏教」を語るよりも
こんにちは。
まず、「極端な物言いを売りにしている」「ある宗教評論家の方が出されている本」とのことですが、回答者には具体的なところが一切わかりません。その肝心のテーマの出典先が分からずに、「この考えについて、どのように」「感じ」るかという回答はそもそもが可能ではありません。
ただ、純粋に「仏教的に見た、善人と悪人・罪人」について、あなたの今後の方向性となることを簡潔に回答したいと思います。
まず、どのような立場で「仏教的に見」るのか、これが大きな問題です。
「宗教評論家」だから、「仏教的に見」ることができているか、これには一定の留保が付きます。仏教徒として、信仰する立場として「見」るのと、一教養として知識を語る(「評論」にはその傾向があります)のでは同じ「仏教」を語っていても差が出ます。
お味噌汁は成分表で語ることができる一方、実際に味わった感動で語ることも出来ます。同じものを語っているのに差が出るのです。
その「評論家」は、どの立場で「仏教」を見ているか。そして、あなた自身がどの立場で見ていこうとするか、ここに重要な大前提があります。
この前提を踏まえた上で「善人と悪人・罪人」を、どの立場で語るか、です。
一番よくある間違いが、「人を傷付け」るなどの一般的な倫理的、道徳的、法律的観点から仏教の「善」、「悪」、「罪」を語ることです。仏教とは、専門性のある分野であり、専門性のある定義があります。その専門性を先ず学ぶ、これが正しい姿勢です。
同種の質問と回答は、過去のものを見れば様々に書いているので、私は質問テーマについての定義そのものについては敢えて書きません。肝心なのは、根本的な考えの持ち方だと思うからです。
100の言葉で、成分表で「仏教」を語るよりも、百聞は一見にしかずです。巷には、仏教入門書が溢れています。手に取りやすいものからで良いので学んでみてください。
まずは、自分が「仏教」をどう見るか、よりも仏様から自分はどう見えるのかを大切にしてください。そこに、心揺さぶられる意味を伴った「仏教的に見た、善人と悪人・罪人」の定義を知ることが可能になります。
七仏通誡偈・因果律
まみ子さま
基本的には、戒律(三帰戒・五戒・三聚浄戒・十重禁戒)の通り、戒律を守ることが(消極的な)善行為・善業、戒律を守らないことが悪行為・悪業となります。
積極的な善行為・善業としては、布施行がそれに当たります。
六波羅蜜の分類では、布施と持戒が利他行として、善行為・善業としての功徳となるのであります。
過去世、今世からの業の総合的なことはもちろん、功徳や仏縁のありようも含めて、次の生まれ先は決まってくるものとなります。
そのため、七仏通誡偈が仏教の大前提、基本となります。
諸悪莫作 もろもろの悪い行いをなさずに
衆善奉行 もろもろの善い行いに努め励みて
自浄其意 自分の心(業)を清らかにすること
是諸仏教 これがもろもろの仏の教えである
ですから、諦めることなく、僅か少しずつでも善行為・善業が上回っていくように努めて参りたいものとなります。
浄土真宗における「悪人正機」については、過去世や現世における業の如何を問わずに、皆、真理を知らない「悪人」であるとして、皆、悪人ではあるが、いかなる者でも阿弥陀如来様に救われる(極楽浄土へと往生できる)と考えるところとなります。
ただ、拙見解では、通仏教的には相当に無理があると考えており、特に、先に挙げた仏教の基本である七仏通誡偈、因果律の原則を無視したものになってしまうと存じております。
また、誰でも極楽に往生できるとはしても、その行き先についても、因果律を無視できるものでは到底ないと考えております。
仮に皆が極楽往生できたとしても、極楽のどこであるのかということが重要なことになります。
極楽浄土も膨大に広く、阿弥陀如来様の報身報土、化身化土のいずれのどこになるのかは、やはり業の因果律を無視できるものではないと考えています。
このあたりのことは非常に難解なところでもありますので、あまり気にして頂かなくても構いませんが、いずれにしても、善き趣きへと向けては、できるだけ今世今生でも業をより善く清らかに調えていくことに努めておくに越したことはないと存じております。
少しずつでも功徳を積んでいくために、是非、仏教を学び修して頂けましたら有り難くに存じます。
合掌
質問者からのお礼
eishun様
ご丁寧に詳しく教えて下さり、ありがとうございます。
改めて、困った時の仏様頼みになっていたと気付き、恥ずかしく思いました。
「諦めることなく、僅か少しずつでも善行為・善業が上回っていくように努めて参りたいものとなります。」とのお言葉、ありがたく受け止めさせて頂きます。
過去の(悪い)行いは消すことは出来ませんが、少しずつでも功徳を積んでいかれるように努めていきたいと思います。
しゃく 悠水様
ご回答ありがとうございます。
おっしゃる通り、質問自体の回答が可能ではないような問いで失礼致しました。
それに対して、私の今後の方向性となるようなお答えを誠にありがとうございます。
仏教について、比較的身近には感じていましたが、ちゃんとした知識はなかったので、きちんと入門書で学んでいきたいと思います。
また、【自分が「仏教」をどう見るか、よりも仏様から自分はどう見えるのかを大切にしてください。】とのお言葉、とても分かりやすくはっと致しました。
ありがとうございました。