現世安穏後生善処
この言葉は私が最も好むこの世の処世術です。
私がこれを知ったのは数年前、法華経のCD販促の新聞広告ですが、その解釈が「現世安穏とは、自分だけが幸せになることではありません。お釈迦さまのいう幸せは、他の多くの人々の幸せがあって初めて自分の幸せがある、ということです。」 となっていました。
あまりの意訳に唖然としたのですが、釈尊の説教は判りやすく伝えていますから、直訳で充分の筈です。
これは多分最も貧しい村に、弟子らが布施が少ないと反対したのを振り切って説教に赴いたときの言葉ではないかと想像します。
貧しさで苦しみと恨みに満ちていたところを、現世は心にとって仮の姿であるから安穏な気持ちを持って過ごすようにすれば、後生は良いところに生まれるよと諭したのだろうと想像します。
貧しくなくても人間関係で苦しみや恨みも生じやすいので、それをプラス思考で安穏に過ごせば、後生は吉報が待っている気がします。
現世では生きるために直接、間接の殺生を積み重ねていますから、通常の人間にはその悪業は免れません。今生は今更悪行を我慢したり改めることなく、後生に「精進料理」を残して置いて、安穏を優先するのが良策かと思っています。
しかし果たして後生にその記憶が残っているかは心もとない限りです。
互いに安穏であれば争いも少なくなるし、自殺の心境では後生で更に悪化するので、思い止まるきっかけにもなるでしょう。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
なるほどですね。
少し私の解釈も補足させてくださいね。
私の地域では桜の花が満開になりました。世の中には沢山の種類の草木があります。もし自分が小さな草として生まれてきたとしたら、桜の木のそばに生まれてきたとしたら、桜の木が羨ましいと思うでしょう。桜ばかり注目されて嫉妬で苦しむことでしょう。
しかしそんな小さな草にも大きな桜の木にも雨の恵みは平等に降り注ぎそれぞれの草木の成長を助けてくれます。
人間も同じです。
人それぞれ生まれも見た目も能力も違います。しかし仏様の慈悲は平等に降り注いでいるのです。その慈悲を糧にそれぞれがそれぞれの成長に努めることが大切です。
小さな草が大きな桜の木に嫉妬することなく懸命に生きているように。
このことを理解し実践すれば嫉妬に苦しむことなく穏やかに過ごすことができます。
そして穏やかに過ごしたならば来世も良い所に生まれることになるでしょう。
質問者からのお礼
三宅 聖章 ご住職様 ご回答ありがとうございます。
安穏の処方は人様々ですね。宗派に依っても多少の違いはあるかと思います。
私は親鸞聖人の悪人正機説が好きです。私の解釈は「善人(を自負する人)なおもて往生す いわんや悪人(を自覚する人)おや」と考えています。
釈尊は「蟻も踏まないように注意して歩く」という言い伝えがあります。そこまで殺生を厳しくすると、誰も善人にはなれません。
悪人を自覚すると、肩肘張りが取れ投げやりにもなりますが、他人のわずかな親切が身に染みて安穏な気持ちを醸成します。他人からの悪態もお互い様と聞き流せます。
安穏の処方は人それぞれですので、自分に合った方法を見つけられれば良いですね。
有難うございました。