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観音様の供養による功徳

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何年か前に仏教の本(題名は忘れてしまいました)で読んだのですが、観音様に少しでも供養したら多くの仏様に供養したのと同じぐらいの功徳があり何回生まれ変わっても尽きることの無いと書いてあったのですが、本当なのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

その文章は誰に宛てられたものか

『お経』と申しましても、様々ございます。
お釈迦様はいろいろな人にいろいろな教えを説かれました。

その教えは“その人”に宛てられたものですから、
“自信のない人”には『自信を持てるように』
“自信過剰な人”には『謙虚になれるように』
お釈迦様は“その人”に必要な教えを説かれるのです。

その様々な教えを記したものがお経なので、一方では『自信を持ちなさい』と書かれている一方で『自信を持ってはいけない』と書いている、というようなことが起きます。
ですから、あなた自身が“その人”に近いかどうかを考える必要があるのです。

観音様に祈ることで多くの功徳が得られる人もいるかもしれません。
しかし、あなたがそうとは限りません。
観音様はもちろん素晴らしい菩薩様ですが、誰でも彼でも菩薩様だけにお給仕すればいいというわけではないのです。

仏教に限らず、知識、教養というモノは多くの方面から得て、自らがその正しさを確信するものであり、それもまた修行なのです。

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日蓮宗の僧侶、啓誠(けいじょう)と申します。 修行に失敗し、一度は腐り切ったり、同僚とぶつかったり、挫折挫折の仏道人生を歩んでおります。 だからこそわかる、答えられることがきっとあると思ってHasunohaに戻ってまいりました。 精一杯、皆様のお役に立てるよう頑張ります。

本当です

私のような🦛カバでマヌケでアホな人間でも大した力はありませんが、どこかの誰かさんの心を助ける功徳となるものです。私は元々パーで今もパーですがグーで人を殴るよりパーでナデナデぐらいはできます。誰もが誰かの力になります。全ての仕事が誰かのお役に立っています。慈悲、慈愛あるやさしい心、言葉、行為は誰かを救います。それが観音様が実際に具現化されたお姿なのです。
だから観音様を信じる。
信じるとは何か。
信じるとはそのものになることです。
立派なお坊さん、祖師たちの説かれる「観音」ということの❝真意❞を会得することが本当の「供養」です。
供養とは信心を仏の功徳に献身的に力をつくしてそれが縁になって自他共に善導させる作用になるので大事なことですが、もっと良い供養・功徳は自らが観音様そのものとなって誰かの救いになる働きになることです。
観音とは目の働き、耳の働き。
実物を実物のままに写す働き。
それそのものは人間の見解が入らない姿を全うしている。
それをアヴァロキティシュバラという。観音=観自在。
観自在とは観自在力。見ることが自由自在。捉えることが自由自在。モノの本性を知り、片方から眺めるようなことをしなくなること。
この世のあらゆるものはそれぞれがそれぞれで最高の功徳を持っている。
たとえば雪や氷。⛄
良いものでしょうか悪いものでしょうか。
犬は喜び庭駆け回るが猫はこたつで丸くなる。
かき氷にすれば子供も喜ぶ。夏には売れる。
冷凍庫であれば保存が可能。
ですが、一晩過ごせば命も危うい。
どんなもの良い面もあり悪い面もある。
良い面悪い面ばかりではなく、活用法は自由自在。
あらゆるもの、あらゆる状況、あらゆる気質が、何かにとって功徳となり、良からぬものとなる。だからこそ、そこに菩提心という最高最上の宗教精神を添えて、その活用法、導き先を考察する。そして、救われるように救いの手をさしのべるのが観音様、および菩薩の優れた善導の行為です。あらゆる宗教というものが善導精神、善玉菌的作用があるのであれば、物事の本質をよく見極め、人の心をよく知り、多くの人々がそれによって喜ばしいようになるように働きかけるのです。
あなたもあなた自身の子心の性格というものがあり、それに迷うようなことがあるのであれば、観音さまの功徳を念じて自分の性格や気質に合った仕事をしたり、上手に活用すればよいのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

けいじょう様、お返事ありがとうございます。
色々考えてみます。

丹下覚元様、お返事ありがとうございます。
誰かの助けになれるよう頑張ります

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