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ダンマパダ76番について

回答数回答 2
有り難し有り難し 28

 いつもお世話になっております。本棚からダンマパダを見つけ、読み
始めました。さすがお釈迦様、勉強になると思い読んでいたのですが、
深遠なみ教えですから、私の頭では理解しがたい箇所も多くあります。

 この中でもダンマパダ76番、
「おのが罪過を指摘し過ちを告げてくれる聡明な人に出会ったならば、
その賢い人に付き従え。隠してある財宝のありかを告げてくれる人に
付き従うように。そのような人に付き従うならば、善いことがあり、
悪いことはない」

 叱ってくれる方の存在は貴重だと一般的に言われ、私もそう思います。
私の訪問看護師も、私が知らずのうちに間違ったことを言ったりしたり
すると、「それは違う」と告げてくれ、有難いと思っています。

 時折見かける「ありのまま」「がんばらなくていい」思想も危険性を
はらんだものだとも思います。(何のために就労移行訓練所や生活訓練所
があるのかということです。特に就労移行訓練所は業界でもお稽古が厳しい
と言われています。生活訓練所も、割合にはっきり注意されます)

 しかしながら、隙あらば他者の粗拾いをする人、例えば私は精神科病棟
への入院歴があるのですが、そこの古株的な患者さんが、私が髪を梳かし
ていると僅かに跳ねた水滴を見つけて
「そこ、濡れてるわね」
などと言ってきたり(私は水を使っていない)、

 以前の質問で触れたような、職務中の警察官などを突如捕まえ
「お前たちはだらしない愚か者だ」
などと怒鳴り散らし、周りの人にまで本人たちに聞こえよがしに同様の
事を訴える人…

 ワイドショーやバラエティーで、
「若者はこんなにいい加減だ、平然とこんな事をする」
などと一事が万事のように特定グループの人々を一緒くたにして
糾弾したり…

 これも「罪過を指摘し告げてくれる聡明な人」に入るのでしょうか。
「罪過を聡明に告げてくれる」のと「激しい、汚い言葉で相手の粗を
論う」のは紙一重な気がします。
 後者の人を聡明だと思って付き従っていれば、逆に自分の心身を
滅ぼしてしまうような気がします。

 「聡明」とは何でしょうか?
 モラル・ハラスメントや、「ただ人の粗を拾いたい人」との違いの
見極めはどうすればよいのでしょうか?

 ご教授のほど、よろしくお願い致します。

2022年4月25日 4:51

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

成仏道上の「聡明」

こんにちは。

以前からご縁があり、回答しています。
その後いかがお過ごしですか。

端的に言って、私は次のような解釈上の問題が有ると思います。
それは、お釈迦様のお言葉を中心に考えていくのではなく、ご自身の体験を中心にお釈迦様のお言葉を考えている、という転倒が起きていることです。

仏教でいう「罪」「悪」「善」とは何でしょうか。
それは、修道上つまり成仏道を歩む上において、自らの業(行為)とその結果について「悪」業或いは「善」果(結果)等々と言ったりするのです。

「精神科病棟」の「古株的な患者さん」は、仏教徒で修行する場において同行に対して「そこ、濡れてるわね」と言ったのですか。禅問答的なやり取りだったらいざしらず、そんな文脈の言葉ではない、単に気になったからそう言っただけように思います。

「ワイドショーやバラエティー」のコメンテーター(その意味でしょう)が、「若者はこんなにいい加減だ、平然とこんな事をする」といったのは、仏教徒としての自覚がある人同士の、成仏を目指した上でのやりとりでしょうか。違うでしょう。

「聡明」とは、成仏道において有意義な導きのことです。
経典等は、例外なくすべてお釈迦様の教えを中心に考えていくべきです。

2022年4月25日 8:23
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有り難し
おきもち

釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
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どんな苦境も菩提心でより良い心へと導く精神こそが「聡明さ」

どんな人でも最後まで捨てきれないものがあるとすれば、それは自己実現欲求。
その職・道の為というより我欲の為。それを捨てられた人こそプロ職であり匠職人。人間はセルフ願望や自己実現欲求という我欲・エゴの為という境涯を離れられると、道・法そのもののに事をなせるようになります。
たとえば日本の料理業界の職人が自分が売れるためにということを離れて、ただ和食の為に、本当に心のこもった料理の為、本当にみんながこの素晴らしい調理法を知って頂き食べる人も素材の命も損なわないように…というような「その道そのものの為に」やるようになれるものです。あらゆる職務が本当はそうあるべきでしょう。あなたに苦言を呈した人や時にマウントをとってくる人、人を追い詰めるような言葉を投げかけてくる人は「そちら」がメインなのです。マウントをとってくる人は自分が相手より優位に立ちたいから高圧的な態度に出てくる心理がある。そういう心理からくるものは教導・教化とはga
背後にある以上言わない。あらさがしをする人たちもそこから代案・改善案がないなら、相手を貶めたいだけ。そういう人間の弱さや心理も知っておけぼ容赦や教導の精神が生じてくるでしょう。ワイドショーなどの番組はスポンサーが絡んでいる以上はオーナーや利権優先のビジネス。偏った先導・扇動と言えましょう。今や、公共性のあるメディアは皆無に等しいですから、その手のものそういうものだと見破るのが聡明さというものでしょう。
そして、そこから、自分も含めて「あらゆる人間」が「はたしてどういう心になればいいのか」をきちんと「こっちだよ」と唱導してあげられる真の宗教者や人天の導師といわれるような人物は人間の性を熟知し人間性を本当に導ける見識・聡明さをお持ちです。禅門において優れた指導者は「自分の我やエゴなどのいやらしい心を滅し尽くしてはじめて人の師になれる」ということを教導されておられます。
ご参考までに。
鎌倉時代の名僧、道元禅師は「布施」ということの功徳についてこのように説いておられます。「布施といふは、不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。むさぼらずといふは、よのなかにいふ❝へつらはざる❞なり。」
世間でいう所の布施とは、まるで異なることを言っておられます。ちゃんと相手に媚び諂わずに、本当にその事の最高のクオリティの為に施すのであると。それが本来の布施教導なのです。

2022年4月25日 10:48
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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

【釋 悠水(しゃくゆうすい) 先生】
 お礼が遅くなり申し訳ありません。はい、ありがとうございます。
お陰様で安定しております。(「疑う」と「信じる」のバランスの
取り方がわかるようになってきました)
 コメンテーターたちの行いを見ていると、言われて改めて考えてみる
と仏道を歩む人たちの行いには見えません。戒律の「か」の字も感じ
られません。
 私がお釈迦様の教えを理解するには、かなり時間がかかりそうです。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ