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弥勒菩薩と布袋尊は=で考えて良いのか?

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弥勒菩薩様と御縁があってお祈りをしています。

その前から恵比寿様と大黒天様もお祈りしており、
丁度七福神繋がりで一緒にお祈りした方が良いのか、布袋尊とは別と考えて別々にお祈りした方が良いのか悩んでいます。

弥勒菩薩様としても、布袋尊としてもお祈りしたいのですが、名文を読むと弥勒菩薩
様の沢山の化身の内の一つが布袋尊なのかなと思えてきます。

弥勒菩薩=布袋尊は同一と見て、恵比寿様、大黒天様と一緒にお祈りしても問題無いでしょうか?

2022年6月12日 22:41

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自身の弥勒を拝み、自ら布袋・大黒と化して福を世にをもたらす。

こういう考えもあるものか、と世流して頂くだけでも結構です。🐔
禅宗では仏は外に求めず、自分自身が仏・菩薩となって生きることを説いております。
もちろん苦しい時は神仏の救いを求めるのは当然です。
ですが、その救いの働きとはいつ・どこに・誰の心に生ずるべきか。
優しい言葉も厳しい導きの言葉も悪くとらえれば救いにならない。
分かりやすいカタチの救いの形をしていなくても、本人に自己向上精神や菩提心、高い人間性を求める意識があれば泥沼にも蓮の花を見出し、乱世の如き世の中にも救いや導き先を見出すこともできるのです。それも布袋、弥勒のすくいのはたらきです。
内なる弥勒、布袋、大黒、薬師、観音の働き、種智をひきだそうとする志。
それを菩提心というのです。
仏教の宗教精神の菩提心とは一切衆生を救うこころ。
人は菩提心より生まれて菩提心に共鳴し、菩提心のハタラキによって救われる。
それが様々な形に変化して随所に救いをなす。
光があそこにもあちらにもあるように自ら救いの作用を見出し、同期し、同化し、みずから救いの作用体となる生き方。
喩えて言えばあなたの身心が患って神仏、仏菩薩、諸天善神の加護を願うとしたら、自分の内なる神仏の救いの働き、諸天善神の救いの働きを見出そうと志せば、自分も救い相手も救える。世間の救いの働きともなれるのです。
弥勒とは未来の仏。
つまり、あなたのことです。
どこかに理想の仏を思い描きながら80年90年と外の世界に仏を思い描きながら死んでいくよりは10代20代30代でもよき行ない、善行、功徳を積めば現世に救いの功徳をもたらせる生き仏となる。
むしろそういういう風に生きることがなかったならば人はこの世の善玉菌として機能しないまま頭で理想ボトケを思い描きながら一生を終えてしまう可能性もある。
生きた布袋、生きた恵比寿、生きた弥勒菩薩となって下さい。
アンパンマンは君さ~♪という歌があるように、アンパンマンを誰かに求めるのではなく、自分がジャムおじさん、バタコさん、アンパンマン、この世と人の心の「善玉菌マン」製造のお手伝いを志すということも布袋、弥勒となる生き方です。
私もできる限りそれをやっています。
そうすると同じ働きを持った人に共鳴して、この人イイなぁ(´-`*)という人に巡り合える。
外に拝む布袋、弥勒さまもいいですが内から引き出す布袋、弥勒の方が身近ですよ。

2022年6月14日 10:24
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有り難し
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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

とても参考になりました。
どこかで見たのですが、欧米で仏教が流行ったのは目覚める教えだからと言うのを見ました。
精進していきたいと思います。

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